【岩見沢】岩見沢の士族移住(2)
鳥取「共斃社」の挙動
明治維新によって禄を失った鳥取藩の旧藩士は困窮しました。西国を代表する雄藩の藩士としての誇りが強く、武勇を尊んできた鳥取士族は時代に取り残されたのです。共斃社に結集した彼らの不穏な動きは、第二の西南戦争も想定され、明治新政府の深く憂慮するところとなりました。
■不平士族「貧窮隊」を組織
廃藩置県による秩禄処分によって困窮した鳥取士族の不平不満のエネルギーは蓄積され、いつ爆発してもおかしくない不穏な空気が漂っていました。
これを心配した旧藩主の池田応徳は明治7(9?)年に金3000円を寄付して「共立社」という鳥取士族の友愛団体を設立しました。池田応徳は、旧鳥取藩の主だった者が加わったこの団体を通して士族を管理しようとしたのです。人員は3000人とも言われました。
明治10(1877)年、日本最後の内乱である西南戦争が終わると、士族反乱を抑えるという共立社の存在意義は薄れ、活動も停滞しますが、戦後に自由民権運動が盛んになっていくと共立社は鳥取における同運動の担い手となっていきます。
共立社は、明治新政府のすすめる士族授産政策に呼応して、猪苗代湖から水路を引き、約4000町歩を開拓して士族を移住させる国策事業に参加、県下から69戸が移住しています。これが後の北海道移住の伏線ともなりました。
一方、西南戦争後のインフレは失業士族をいよいよ困窮に追い込み、明治13(1880)年春、秋田実、小倉直人らによって「貧窮隊」というその名の通りの士族団体がつくられました。
この「貧窮隊」は、ほどなく鳥取藩の元東征参謀で明治13(1880)年当時は津山警察の警部だった足立長郷が設立したキリスト教主義による自由民権運動団体「悔改社」に吸収されます。悔改社は、貧窮隊に共立社の一部を加え、またたく間の間に県下の一大勢力となっていきました。

足立長郷①
■「貧窮隊」は「共斃社」へ
明治14(1881)年、悔改社は「共斃社」と名前を変え、いっそう政治的主張を強めます。島根県と合併して失われてしまった鳥取県の復活を強く訴えました。そして運動の手段として実行したのが「米の津出し禁止」です。「津出し禁止」とは力によって米の県外移出を妨害することです。
西南戦争後のインフレによって米の値段が上がり、士族の生活をますます追い詰めましたが、鳥取士族は、貴重な米が県外に流出するので米の値段が上がるのだ、と考えたのです。明治13(1880)年の「悔改社」時代に士族数百人が退去して県庁に押し掛けて、米の県外移出禁止を求めたましたが、拒否さました。そこで悔改社は共斃社と名前を変えて自らの困窮を訴えます。そして活動は一層過激になっていきました。
「米の津出し禁止」で共斃社員は、米を他県に移出しないという誓約書をもって県下の雑穀商を回り、強圧的に署名捺印させました。数年前までの鳥取藩の藩士であった彼らの要求を商人たちは拒むことができません。共斃社員は県下の業者の大半を従わせました。もちろん、県庁はこの動きを取り締まろうとしましたが、「然れども威力に恐慌し敢えて実を以て告訴せざる」であったと言います。
米の県外移出が止まったことで、米の値段は一時的に下がり、共斃社もまた「衆人のために斃る」と啖呵を切ったことで、県民の強い支持を得ました。県庁はせいぜい「共斃社に欺かれるな」というい布告を出した程度。県庁の弱腰な姿勢によって共斃社はさらに増長しました。
明治14(1881)年4月には、鳥取鹿野街道沿いの木屋・いわしやが襲撃されました。はじめは夜間の投石でしたが、しだいにエスカレートして店舗の表戸を打ち破り、米穀が強奪されました。共斃社の活動は、後の「米騒動」にも似た混乱に発展しそうな様相でした。
共斃社の活動は中央政府も憂慮するところとなり、明治14(1881)年7月、政府の実力者、参議山県有朋が鳥取島根の視察を行い、7月18日に岡﨑平内、足立長郷ら共斃社の幹部と会いました。そして彼らが強く主張する鳥取県の独立に好意的な姿勢を示しました。

山県有朋②
■釧路郡『鳥取村50年史』の証言
『鳥取県史』は触れていませんが、このときに山県有朋と共斃社幹部との間で、鳥取士族の北海道移住に向けた合意があったと言います。ここからは『岩見沢市史』(1968)からです。
『岩見沢市史』は、 昭和9(1934)年に発刊された『鳥取村五十年史』を引用することで、この事情を紹介しています。釧路郡鳥取村も岩見沢と同じく鳥取士族105戸が移住してつくられた村で、『鳥取村五十年史』は移住者にいた共斃社関係者の筆になるものと見え、記録として貴重なものです。引用の引用となって恐縮ですが、紹介します。
士族、それは旧幕時代といえば久しい前のことのようであるが、その当時ではほんの四五年前の事であったのだ。その御維新前までは、四民の上に世襲の支配者として、其権威と勢力をほしいままにして来たのである。それが今や禄に離れ、地位を失って路頭の一失業者となったのである。そしてかつて被支配者として、眼下に視た市井の百姓町人から、冷笑の眼を以て送迎せられるに至ったのである。
禄制を改革して士族をして窮境に陥らしむ――とは、当時全国的に失業士族が等しく抱懐して居った不平、不満である。彼の征韓論をキッカケにして、佐賀・熊本・山口等に起った暴動、最後に鹿児島に蜂起した兵禍、詮じ来れば皆失業士族の不平、不満が爆発したに過ぎないのだ。
鳥取県に於ても、失業士族は決して少ない数ではなかった。そして西南戦争の当時、政府が財政難の応急対策として、紙幣を乱発した影響を受け、戦後物価の高騰を誘致し、さなきだに脅かされがちな失業士族の生活は、極度の窮迫に陥った。この時に当り何とかしてこれを救済してやりたいと、敢然として立ったのは、藩中で智力・弁才兼ねて武技にも衆を圧する誉のあった足立長郷・小倉直人の両人である。
両人は十一年暮、鳥取市本町二丁目に「共斃社」を創立し、次の如き綱領を掲げて同志の士に呼びかけた。
ー、鳥取県再置の請願運動を開始する事(明治九年、鳥取県廃止となり特根県に合併さる)
二、当社は公益を計る為め各製造元より、薪炭を特約買出し、社員をして市内大商店其他へ売込み配達せしむる事。
三、県庁始め諸役所へ物品納入の特約をなし、社員をして配達せしむ。
四、監獄署へ用達として薪炭及青物其他日用品の納入を特約し、且つ同署製作品の払下げを一手に引受け、社員をして販売せしむ。
五、因伯内の各港に於て、米穀を他国へ積出すは国内の米価を騰貴せしむるに付、これを防ぐ為め其等商人又は問屋筋へ社員を派し之れを厳禁し、且つ厳重監視せしむ。
これを間き伝えた失業士族は、国内西から東から続々来り集まり、見る間に千四、五百名の社員―徒党が集結するに至った。即ち足立「小倉の両人は如此勢力を提げて、県庁・諸官署に押掛け、その得意の弁舌を奮って、着々前掲の綱領を実行し、社員をして八方其業務に掌握せしめた。が、何分多数の事であり、中には血気にはやる連中もないではないので、制御・統率に一方ならず苦心したことは言うまでもない。
それでもヤレ某の夜、黒布で覆面した一隊が資産家某の家に押借りに行った。ヤレ某の日某大商店に怒罵の声がして主人が土下座をして詫びて居った。金貸某が辻で斬殺せられて居った。大官某の門が夜中に叩き毀された等々の風説が巷から巷に嵐の様に流布して、それは一切共斃社員の所業であるが如く伝えらるるに至った。
政府では、西南戦争に懲りて居るので、下手に弾圧してまた近国の不平分子と気脈を通じ、反乱を起されては一大事とちょうど腫れ物に触るように、十三年夏、要路の大官杉孫七郎(後の子爵) を鎮撫使として派遣し、足立・小倉に共斃社解散の事を懇論させた。が、それ位のことで手を引く足立や小倉ではないので、杉もほうほうの態で帰京した。
こうして県下人心の不安は今やその極に達するに至った。そこで当時朝堂の上に声威高かった山県内務卿(有朋) が、自ら鎮撫に来県し、足立長郷等と会見した。「烏取県は願の通り再置するから、共斃社を解散せよ」と懇々説諭した。
山県卿 こんな事は、やめたがよいではないか。
足 立 止めりゃア食えんで、やめられん。
山 県 それなら食える様にしたら、やめるというのか。
足 立 無論、飯が食えさえすりゃア、こんな事をする者は有りゃアせん。
山 県 防備をかねて北海道へ移住する気はないか。出来るだけの保護はするが……
足 立 よい処なら行こう。
話は簡単である。これで鳥取県士族が、防備を兼ねて北海道へ移住するという大綱は決定したのである。
この山県と足立の会談から明治16(1883)年の「移住士族取扱規則」が生まれ、鳥取士族の北海道大移住が始まるのです。
【主要参照文献】
『鳥取県史 近代第2巻 政治篇』1969
『岩見沢市史』1963
『岩見沢百年史』1985
①『鳥取県人の北海道移住Ⅱ』1998(鳥取県立公文書館)
②国会図書館「近代日本人の肖像」https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/208/