【岩見沢】岩見沢の士族移住(3)
士族移住を成功させた毛利水軍の底力
明日にも爆発しそうな鳥取士族の不満を抑えるため、山県有朋は北海道への困窮士族の移住制度を立ちあげます。こうして幾春別川ほとりの大森林に明治17(1884)年と18年の2年間で277戸1503人が移住します。岩見沢の始まりです。この移住事業を成功に導いた影には毛利水軍の力がありました。
■共斃社の解散
困窮士族の救済対策として山県有朋が北海道移住への便宜を申し出ると、足立長郷はこれを承諾し、共斃社を解散します。次は『岩見沢百年史』(1985)に掲載された足立長郷の「鳥取共斃社解散之議」の一節ですが、岩見沢に移住した鳥取士族・朝倉敬次郎がもたらした貴重な記録です。
一社の為めに東上せし事再度漸く県令の尽力かと時期の到来とにより、政府我県下士族の困難の此に非ざるを明察せられ、金五万円を以て授産資本として下賜せられ加ふるに、来十六年より五年間に壮士一千戸を北海道に移し、永遠の産に就かしむるの特恩を添するに至れり。
然れば我共斃社の主義は素より悉く基望みを達したる者なる。各位と同感なるは信じて不疑所にして又共に歓びに不堪なり、然り而して我共斃社創始以来の出費一切目下罪生の負担に属し、将来の目的も全く其責を荷うは勿論の事にして、其労苦たる更に罪生が厭ふ処に非すと雖も、其の目的たる独立維持の法なきに苦むは諸君も熟知せらるるや論を不待也。
明治政府の重鎮であった山県有朋は、共斃社との約束を果たすために、明治15(1882)年より国家の事業として貧窮士族を北海道に移住させる計画を立ちあげます。開拓行政の主管であった農商務省は7月に北海道三県に対して「移住士族取扱規則」の立案を命じました。
函館県・札幌県・根室県はそれぞれ翌16(1883)年6月中に同規則を公布。また開拓行政の主管省庁であった農務省も三県ニ移住士族特別保護及取扱規則」を全国府県に発しました。
■移住士族取扱規則
岩見沢、すなわち札幌県で示された「取扱規則」の概要を紹介すると第1章では
第1条第1項 凡そ他道の士族、本県管内に、送籍移住し、農業一途に、従事せんと欲する者は、此の規則に照らして、出願するを得。但、士族にして、農家緊急の関係を有する職工に従事せんと欲する者は、本文に準拠する事を得。
第1条第2項 此の規則は、士族の最貧困にして、自力移住せざる者の為めに、特に施行するものとす。
と、この事業は特に困窮した士族のための施策であるとうたっています。
そして対象者には、耕宅地として1戸あたり2万坪が貸与されました。3年以内に開墾を終えると地代が徴収されることになりますが、7年間は支払いが猶予されました。余力のあるものは土地を安価に買い求めることもできました。
さらに移住者への特典として
・着船場より移住地まで運賃として1戸金10円以内の額を貸与
・塩味噌料(一人一日1銭5厘※7年以上60歳未満)
・鋤、鎌、山刀、鋸、鉈、鍬、砥、肥桶などの農具の貸与
・種子物料(2円50銭)
・耕作馬(2戸に25円以内)
・仮小屋料(建物図面を検査し、規定通りなら相応額)
・荷物陸送料(船着き場から現地まで6里以上は1戸2円50銭)
などの貸与がありました。これらは入植から7年目までは据え置き、以降20年に渡って毎年均等に返済します。しかし、
・此の規則に頼って移住せし者は、当初より25年間他の営業に移るを許さず
・予定の耕地を墾成する為め、毎戸必ず課程を定め、新墾坪数を、日表に登記せしめ、毎週其の勤惰を督詞すべし
・課程は雨雪其の他、実際就業し得ざる日数を除き1戸1日、20坪以上の耕地を新墾する
・課程を怠ること、1年間3回に及ぶ者は、其の軽重を斟酌し軽きは、5日及至10日、重きは1ヵ月乃至3月、全家、米塩噌の貸与を停止すべし。
・毎年播種の耕産は予め其の段別及種類を詳記して届出べし、本県は之を調査し、意見あるときは更にその段別を増減し。又は種類を改撰せしむ。
・日々就業の時間及び関墾の順序は、別に定めたる、細則を遵守すべし。
・凡そ此の挙の方法は、本県に於いて担当官吏を実地に派し、其の事業を督視し、監視し勤惰を査察せしむ。
・移住者便利の為め20戸を以って1組とし、毎組に総代1名を置き、都て戸長の指揮に随い、組内の事務を取扱わしむべし。
と豊富な特典の代わりに当局の厳しい管理を受けました。
■岩見沢の創設
札幌県の士族移住は、岩見沢幌向から砂川市空知太までの間、現在の国道12号線の間に毎年150戸ずつ8年間で1000戸移住させて、この地域の開拓を一挙に進めようとするものでした。

岩見沢地方1000戸入植計画図①
移住希望者は、まず願書を居住地の官庁に提出し、その添状を以て札幌県に出願となります。最終的には農商務卿(大臣)が許可しました。入植者の人選には政治的な配慮も多分に働いていたようです。
岩見沢には、明治17(1884)年9月から12月にかけて、最初の士族移住80戸459人が入植しました。うちわけは山口県64戸・石川県4戸、滋賀・山形・秋田・大分の各県各2戸・三重・富山・愛媛・島根の各県各1戸です。

岩見沢士族移住入植地②
これを受けて明治17(1884)年10月6日に「岩見沢村」が正式に設置されます。さてこの「岩見沢」なる地名ですが、道内地名には珍しく純和名です。
明治11(1878)年、後に岩見沢になる一帯はまさに人跡未踏の大森林地帯で、密林の中を流れる幾春別川が凹地をつくり、わずかに青空が見えていました。この川筋を上って炭鉱開発のため奥地に入った開拓使の技師坂市太郎一行は、現在の北本町東1丁目あたりの川渕に浴場をつくり、汗を流しました。
以降、この場所は奥地への調査団によりたびたび利用されるようになり、関係者の間で「浴澤(ゆあみざわ)」と呼ばれるようになり、ここから「岩見沢」という名称が生まれたとするのが定説です。岩見沢の「開拓記念碑」には次のように書かれています(『岩見沢市史』の読み下し)
岩見澤は浴澤の転称なり 開拓使幌内炭山を開く 十数里の間葬蒼深林人煙を四絶す 明治十一年道路を創めて造る 丁卒を執役せしめ慮舎を結ぶ 澗流に就きて浴す よって浴澤と称す
すなわち、当時の岩見沢はあまりの奥地すぎて、アイヌによる地名すら無かった地域だったのです。それは岩見沢最初の史書『郷土誌稿本』のこんな記述からも明らかです。
未開時代の概要を知らんとするも記録なく、口碑また漠然として多く信ずるに足らず。従って岩見澤地方は一個無名の地が時を得て開拓さるるに至りしものなり、と信ずるを妥当とすべし。
士族移民が挑んだのは、文字通りに人跡未踏の大森林だったのです。
■鳥取を上回る山口士族
明治18(1885)年になって、士族移住のきっかけとなった鳥取士族105戸が入植しました。しかし、同年には山口移民も72戸が入植しています。両年で山口136戸、鳥取105戸と、山口士族移民が鳥取士族を数で上まりました。
この移民事業を発案した山県有朋が山口・長州閥の重鎮だったことで、山口士族が優先されたという背景に加え、こんな事情もありました。
山口県の平郡島は瀬戸内海に浮かぶ周囲約20㌔の島ですが、船の操縦に長けた島民は毛利海軍の主力として知られてきました。特に弘治元(1555)年、毛利氏が陶氏に勝利した厳島合戦の勝利に貢献したことで、毛利氏は平郡島の人々を年貢を納めなくても良い平郡舸子(へぐりかなこ)という士族格の特殊な身分が与えられました。
平郡舸子は100人限定で交代制という他には見られない特殊な身分でしたが、明治に戸籍制度が整備されたとき、全島民が士族籍に編入されました。
明治17(1884)年、台風の上陸で島は風水害に襲われ、食糧不足で飢饉状態に陥りました。ちょうどこのときに始まった北海道への士族移住事業は、水害に苦しむ島民にとってまさに渡りに船だったのです。
次ぎに現在島を管轄する柳井市教育委員会の松島幸夫さんが記した『平郡島の輝かしい歴史』から関係部分を引用します。
小樽からはSL弁慶号が引っ張る石炭運搬用の貨車に乗って、小雨の中を石炭粉で真っ黒になりながら岩見沢駅に着きました。あてがわれた土地に入植したのですが、自然条件の過酷さは想像をはるかに超えていました。かつて人間が入ったことのない原野には、大木が立ち並んでいました。
斧で巨木を倒しましたが、どっかと居座った根を人手で掘り出すのですから、とてつもない苦労を要しました。来る日も来る日もつらい作業は続きました。冬になり朝起きてみると、布団の周りには雪が降り込んで積もっていました。
暖かい夏は快適だろうと期待していたら、やぶ蚊が血を吸い、ブヨが噛みついてきます。夏にはマラリヤ、秋には腸チフスが蔓延して、入植者を悩ませました。萩や鳥取などの城下町で竹刀を振り回し、儒教を口ずさんでいた連中には、辛抱できずに本土へ帰っていく者もいました。
一方で平郡出身者は、着々と原野を耕作地に変えていきました。それもそのはず、島の傾斜地を農地にした人々ですから当然です。官報によれば「萩など城下町からの入植者は、身体軟弱にして労働に堪えず。監督者が責めれば、土地の卑湿を愁い、樹木の密林を歎くなど、種々の苦情を唱うる」と酷評しています。
一方で「平郡からの入植者は、着実な志をもって開墾を果たしている。余裕を生んだれども質素倹約を守り、なおも増産に勤めている」と記載して褒め讃えています。
日本全国から集まった入植者の中で、平郡島出身者だけが抜群の成果をあげ、底力を見せつけたのです。
およそ鍬など持ったことのない士族移民は原野開拓に苦しみましたが、岩見沢の士族移住が曲がりなりにも成果を挙げたのは、この毛利水軍の底力があったのでした。
【主要参照文献】
『鳥取県史 近代第2巻 政治篇』1969
『岩見沢市史』1963
『岩見沢百年史』1985
『山口県史 通史編近代』2016
松島幸夫『平郡島の雄々しい歴史』柳井市教育委員会 https://heigun.jp/heigun/wp-content/uploads/heigun_history.pdf?ver02
①『鳥取県人の北海道移住Ⅱ』1998(鳥取県立公文書館)
②いわみざわ歴史ガイドhttp://iwamizawa-town.gr.jp/history/