北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

 

高畑利宣の冒険(番外編①)

岩村通俊と島義勇 上

 

シリーズで高畑利宜の物語をお届けしていました。明治10(1877)年の西南戦争に参戦した高畑が鹿児島で県令を務めていた岩村通俊と再会する手前まで話しを進めていましたが、黒田清隆によって開拓使を追われた後の岩村通俊の足跡を紹介するつもりが、話しが膨らんで番外編となってしまいました。舞台は佐賀県。北海道開拓と離れるように見えますが、この九州で起こった出来事が北海道開拓の行方に大きく関わっていきます。数回にわたって番外編として岩村通俊の物語をお届けします。

 

■サムライの国・佐賀

高畑利宜が西南戦争最後の決戦の地となった鹿児島で出会った人物は、かつて上川探検を命じ、開拓使における利宜の地位を導いた岩村通俊その人でした。この出会いがどのように生まれたのか、時計を巻き戻しましょう。
 
黒田清隆と激しく対立した岩村通俊は明治6(1873)年1月に開拓使から追われます。やむなく通俊は東京に戻りましたが、薩長土肥で構成された新政府の中でも土佐の逸材・能吏として名を馳せていた通俊です。政府が通俊を無冠のまま放置するはずもなく、7月に大蔵卿の大隈重信から佐賀県の県政について諮問がありました。
 

大隈重信①

 
佐賀県は、幕藩時代の国名では「肥前」と呼ばれ、明治5(1872)年にそれまでの4つの藩を引き継ぎ明治5(1872)年に誕生した藩ですが、36万石の旧佐賀藩、または藩主の名前から鍋島藩と呼ばれる藩の存在感がひときわ大きな県でした。
 

佐賀藩領国図②

 
佐賀藩は、北海道では開拓使の初代長官鍋島直正や大判官として札幌の基盤をつくった島義勇がなじみです。なぜ佐賀藩が幕末に大きな存在となったのか、北海道開拓に関わったのかを簡単に解説します。
 
佐賀藩は九州の北部、有明海を福岡藩と共有し、代々鍋島家が領有してきた外様大藩です。下の表は『佐賀県史』掲載の幕末における主な藩の士族人口を示したものですが、徳川御三家が治める名古屋、和歌山、静岡を除くと士卒人口は、鹿児島、高知、金沢に次ぎます。士族人口の多いことも特徴でした。
 

主な藩の士族の戸数と人口(明治4年)『佐賀市史 第3巻 (近代編 明治期)』1978

 
また佐賀藩は、武士道の精神を表したものとして世界的に名高い『葉隠』を生み出したことで知られます。人数的にもその精神においても佐賀は、〝侍の国〟だったのです。
 

■英君・鍋島直正

さて佐賀藩ですが、ここも江戸後期に財政難に陥ります。そこで天保元年に名君として知られる鍋島直正が17歳で10代藩主に就き、藩政改革を断行しました。直正は「粗衣粗食令」を出して倹約に務めるとともに、不在地主の土地を没収して小作に与えるなど独自の土地制度によって農業振興を図りました。
 

開拓使長官鍋島正直③

 
さらに直正は、藩校の「弘道館」を拡充して士族教育の振興を図ります。苦しい中で藩校の予算を1000石に増加し、「文武不心得者は禄米を減ずる」という厳しい態度で、士族皆教育を進めました。士族人口が多い上に、全士族に教育を義務づけたことから、直正の代に有能な人材が次々と生まれ、幕末維新で活躍するのです。
 
佐賀藩は、副島種臣、大隈重信、江藤新平、大木喬任と維新政府の最高幹部である「参議」を4人も輩出しています。佐賀藩士は教育程度が高く有能であったことから新政府で重く用いられたといいます。
 
さらに、佐賀藩が幕末維新で重きをなすのは、江戸時代の唯一の世界への窓口であった長崎の「出島」の防備を担当していたことも大きいのです。
 
佐賀藩は、長崎を通して欧米の情報と技術を吸収しました。文久3(1863)年には当時世界でも最新鋭といわれるアームストロング式大砲の国産化に成功しています。砲身の製造のために製鉄技術の開発まで行いました。このような伝統を直正はさらに推し進め、慶応元年には日本初の蒸気船「凌風丸」を製造しました。
 
幕末の「薩長土肥」の一つに数えられる佐賀藩ですが、維新の動乱で、大隈重信、江藤新平などは、龍馬や西郷のような活躍を見せていません。また英君の誉れ高い直正はむしろ幕末の政局から距離を置いていました。
 
それでも薩長土肥の一つに数えられるのは、佐賀藩のもつアームストロング砲が重要な戦場で威力を発揮したこと。士族人口の多さから多数の兵員を戊辰戦争に供給したことが挙げられます。『佐賀県史』によれば、戊辰戦争に動員された兵士の半数近くが佐賀藩士であったと言います。
 
軍事的な基盤を持たない新政府軍が幕軍を打ち負かした影には佐賀藩の技術と数の力があったのです。
 

アームストロング砲④

 

■島義勇の蝦夷地・樺太探検

佐賀藩の蝦夷地への関心も長崎つながりです。幕末政局からは慎重に距離を測っていた鍋島直正ですが、長崎を通して西洋事情に通じ、早くからロシアの南下を警戒するとともに、蝦夷地に関心を示していました。ここで開拓使大判官として札幌の基盤を築いた島義勇が登場します。
 

島義勇⑤

 
島義勇は文政5(1822)年に佐賀城下で経学に仕えた名門の出です。9歳で弘道館に入学し、23歳で卒業しますが、その後に各地を遊学し、水戸の藤田東湖の元で勉強を続けました。弘化4(1847)年に帰国すると弘道館の目付になるとともに鍋島直正の外小姓に取り立てられます。直正の最側近となったのです。
 
嘉永年間に東シベリア総督ムラヴィヨフは、樺太進出を強めるとともに、プチャーチンを送って日露和親条約を結ばせました。ロシアについて独自に情報収集していた直正は蝦夷地の実情を把握する必要を感じ、現地調査を企画します。師である藤田東湖が蝦夷地開拓の急務を唱えていたことから、島も蝦夷地に対して関心が高く、主君の求めに名乗り出たのです。
 
当時、蝦夷地は一般人の立ち入りが禁じられていましたから、直正は函館奉行堀利煕の近臣という名目で島を送りだしました。安政3(1856)年5月11日に函館を出た島は、蝦夷地西海岸を北上し宗谷から樺太に渡り、東西海岸を探検。その後、オホーツク海沿岸を経て根室に着き、日高を回って室蘭から安政4(1857)年9月27日に箱館に戻ります。こうして島は蝦夷地と樺太南部を極めた数少ない和人の一人となったのです。
 
島は安政5(1858)年1月に1年半に及んだ蝦夷地探検を終えて佐賀に戻り、直正に詳しく蝦夷地の状況を報告します。このことが幕末から明治初期にかけて佐賀藩による積極的な蝦夷地関与につながりました。
 
少し時代は飛びますが、慶応4(1868)年3月9日明治天皇は蝦夷地開拓の勅問を下し、明治の北海道開拓が始まります。北海道開拓に向けた明治天皇の強い意欲を受けて岩倉具視は開拓の具体策を諸侯に求めますが、答えに窮する諸侯の中で直正だけが蝦夷地の実態に根ざした具体策を上申することができ、直正の初代開拓使長官就任となりました。
 
さて島義勇ですが、戊辰戦争では政府軍海軍参謀として艦隊を率いて活躍。佐賀藩のアームストロング砲は、北越戦争の勝利を決定づけましたが、これを運んだのが島と言われます。
 
明治新政府が樹立されてからは、会計官判事、徳川家所領地取調係などの要職に就きました。そして鍋島直正が開拓使長官に選ばれると、筆頭判官となって札幌開拓にあたるのです。
 
島義勇は「佐賀の七賢人」の一人に数えられます。七賢人には島の他に、鍋島直正(議定・大納言・開拓使長官)のほか、佐野常民(日本赤十字創設者)、副島種臣(参議・外務卿)、大木喬任(参議・文部卿)、江藤新平(参議・司法卿)、大隈重信(参議・内閣総理大臣・早稲田大学創設者)が入ります。
 
いずれも明治の元勲です。その中に開拓使の判官入るのはおかしいでしょうか? 道民は自分たちの歴史を過小評価しがちですが、島が就いた開拓使の大判官は、他の七賢人と決して引けを取らない高い役職だったのです。事実島は今も佐賀県の人々に郷土の偉人として尊敬されています。
 

■佐賀県令

話を岩村通俊に戻します。岩村は明治6(1873)年7月に大隈重信から佐賀県の統治について相談を受けます。
 
明治政府が確立すると、廃藩置県、廃刀令、秩禄処分によって士族の特権を奪って四民平等政策を進めました。なかでも明治4(1871)年の廃藩置県は、藩主に与えられていた領地の支配権を取り上げ、中央集権的な郡県制に代えるもので、藩体制の完全な否定でした。
 
このことに憤ったのが士族階級、中でも倒幕の功労者であるはずの薩長土肥の士族たちでした。勝ち組であるはずなのにどうして———というわけです。
 
佐賀藩士の心得を説いた『葉隠』には次のような文言があります。「我は殿の一人被官なり。常住御恩の添えなきことを骨髄に徹し、涙を流して大切に存じ奏じるまでなり」(自分は殿のただ一人の家来である。いつも御恩の有り難さが骨身に徹し、涙を流して殿様の大事と思うだけである)(大隈三好『現代訳 葉隠』)。
 
廃藩置県と四民平等政策は、葉隠武士にとってアイデンティティの否定そのものでした。
 
通俊に声をかけた大隈重信も佐賀士族です。明治4(1871)年に政府の最高幹部である参議となり、明治6(1873)年には大蔵省総裁となっていました。この頃、明治4(1871)年から6年、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文など明治政府の最高幹部が欧米視察に行っていましたから、留守組の大隈は、岩倉使節団が訪欧中の政府をまとめる要で、彼の一挙手一投足が明治日本の行方を左右する存在でした。
 
そんな大隈でしたが、やはり故郷が心配だったのでしょう。大隈重信が通俊に諮ったのは、佐賀特有の土地問題の解決方法でした。佐賀藩では鍋島直正により独自の農地政策が行われていましたが、廃藩置県で佐賀藩が消滅し、地租改正が行われるにあたってこの土地制度が問題となったのです。通俊は明快な対処法を示しました。このことを評価した大隈は通俊を佐賀県県令に任命して送り出します。
 

岩村通俊⑥

 

■征韓論と征韓党

明治6(1873)年7月22日に通俊は佐賀県に着任しましたが、治安の悪化は想像を超えていました。
 
折しも中央政界では征韓論をめぐって激しい議論が交わされていました。征韓論は、王政復古を隣国韓国に知らせる使節がぞんざいな取り扱いを受けたことに端を発し、西郷隆盛、板垣退助らが韓国の無礼をたしなめるために出兵を主張したものです。
 
岩倉使節団が訪欧中の明治6(1873)年、西郷隆盛は自ら使節となって韓国に渡る主張し、その要求をめぐって政府は二分していました。西郷は特使となって韓国に渡り、自分がかの地で命を落とすことで、日韓の戦端を開こうとしていたのです。留守政府のトップ三条実美は、使節団が帰るまでそのような大事は結論できないと逃げ続けていました。
 
この論争は、多くの政府要人を輩出していた佐賀にも波及し、征韓論を支持する士族が集まって気勢を上げました。また必ずしも征韓論に組しないものの新政府の政策に反対する復古派の士族は憂国党を結成して激しく要求を突き付けていました。
 
土地問題どころではなく12月に通俊は、大隈重信に邏卒(警官)派遣による取り締まり強化の要請を行っています。
 
この頃、維新政府がすすめる急激な封建制解体政策に士族階級の怒りはピークに達していました。征韓論を主張する西郷らのねらいは、帝国主義的な領土拡張策よりも、対外的な危機を作り出すことによって士族の怒りの矛先をそらすことにあったのです。明治維新からまだ5年、国力的に対外戦争が不可能なことは明らかでしたが、西郷らはそのことよりも不平士族の爆発を恐れたのでした。
 

征韓論の図⑥

 
佐賀に赴任した通俊は、佐賀士族の喧噪に悩まされながらも、大隈に進言した土地政策を実行に移そうとしますが、すぐにそれどころではなくなりました。明治7(1874)年1月25日、前参議で司法卿の江藤新平が佐賀に帰郷したのです。
 

 
 

【引用・参照出典】

佐藤一夫『北に描いた浪漫 先駆者・高畑利宜とその時代』北海道出版企画センター・ 1990・

④『佐賀県史下巻 (近代篇)』1967
『佐賀市史 第3巻 (近代編 明治期)』1978
『佐賀市史上巻(復刻版)』1973
『郷土に輝く人びと第1集』 佐賀県青少年育成県民会議1968
『郷土に輝く人びと第3集』 佐賀県青少年育成県民会議1970
『郷土に輝く人びと第7集』 佐賀県青少年育成県民会議1975
片山 敬次『岩村通俊伝』岩村通俊伝刊行会1933
岩村 通俊『貫堂存稿』岩村八作1915
重松一義『明治内乱鎮撫記 岩村通俊の生涯と断獄史上の諸群像』プレス東京1973
⑤幸前伸『史説開拓判官島義勇伝』島判官顕彰会1978
②八幡 和郎『藩史物語1』講談社2009
園田日吉 『江藤新平伝』大光社1968
①正田 健一郎『大隈重信 - その生涯と人間像』早稲田大学出版部1980
宮田 幸太郎『佐賀の乱ーその証言』1972
③https://ja.wikipedia.org/wiki/
国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/search/

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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