【同時代ライブラリー】 江南哲夫『北海道開拓論概略』(明治15年)②
北海道あるを知って、日本帝国の宝庫たるを知らざるなり
白虎隊の生き残りで慶應義塾出身の明治の実業家・江南哲夫が明治15(1882)年に著した『北海道開拓論概略』を読むシリーズの②回目。前回の内容を私なりに復習してから、原文を紹介します。前回で北海道開拓は天の時と説いた江南は、この回で北海道開拓に対する否定論に反論を加えます。
わが国が富国強兵によって世界に伸張してようとしているときに、北海道開拓が最大の急務であることはもはや議論の余地はない。天の時、人の事情、わが国の状況、そのいずれをとっても今が開拓の時である。北海道はヨーロッパの小国にも匹敵する面積を持っている。これを放置することは明治天皇のお心にない。北海道の可能性から目を背け、消滅に任せるのは、志士のもっとも嘆くところである。
私は北海道開拓は明治維新の志を引き継ぐもの、いわば明治維新の第二幕だと考えています。江南の開拓論の冒頭、北海道開拓は「天の理」であり「上帝の本旨」であるという部分、とくに我が身を「天の理」の中において顧みる、ところに明治維新を成し遂げた「志士」の精神がよく現れていると思います。
しかし、何事にもタイミングというものがある。これを誤ると成功するものも失敗する。北海道開拓も同じである。実際に旧幕府の頃、新井小一郎が幕府に献策して長万部の開拓を試みたが失敗した。これは開拓の機会が熟していなかったのである。
これについて補足すると、安政5年、箱館奉行の荒井小一郎が関東、越後から農民百戸を募集し、官営の農場である「御手作場(おてさくば)」を開きました。しかし、移民の質が悪く離農が相次いで失敗に終わっています。
しかし、今、明治になってさまざまなものが興り、人々の意識も変わった。なによりも欧米諸国が長年積み上げてきた科学・技術を北海道開拓に活用できる。これらは昔はなかったものだ。
欧米の連中が試行錯誤の末に獲得した技術の中から北海道に合うものをチョイスして適応すれば、北海道の悪条件も克服できるとしています。全体的に江南の開拓論には、明治維新の重要なコンセプト「和魂洋才」の理念がよく示されています。「和魂洋才」の理念こそは近年になって日本から急速に失われているもので、日本の斜陽化が語られる今思い返したいものです。
おおよどんな新しい事業でも、既存の事例を研究し、慎重に利害を計算して事業の可能性を図るのは大切だが、幸いに北海道開拓が始まって10数年、多くの成功例が生まれている。加えて欧米の経験に学ぶこともできる。
として、成功モデルとして、「登別・門別・余市・遊楽部および開進会社」を挙げています。明治15(1882)年にはこれらが代表的な事例だったのでしょう。登別は仙台白石支藩の片倉家開拓、門別は日高ですから徳島藩稲田家の静内開拓と思われますが、どうでしょうか? 遊楽部は

さて、このように江南は、同志を焚きつけますが、しかし、そうはいっても──と当時も強い異論や反論があったことでしょう。②は北海道開拓のネガティブに対して反論を加えるものとなっています。

明治二年、蝦夷地が北海道になった時の地図①
■今日の寒冷も決して憂慮するに足らず
北海道開拓起業は、すでにこれのもと多くの便益あるにもかかわらず、世人は開拓の議を排斥して曰く「北海道は寒凍の地なり。堅氷、積雪、暖地人の移住に適せず。加うるに地味薄痩、風厳霜、五穀蔬菜の耕作によろしからず」。
曰く「山脈縦横険山重峰多くして広平野に乏しい。ゆえに稼積の業を起こすにあらざるのみならず、道を開通し通運を開くに不便なり」。
曰く「北海道は従来、漁業の地にしてただ漁季のみ人口増加すべしも、甚だ寂寥に●す。ゆえに人夫を使役せんと欲するも、賃金きわめて高きがために損益相償はざるのみにならず、ほとんど需用の労者を得ることは難し」と。これ、そもそも取るに足らざる管見というべし。
第一に、本道の気候はこれを内地関西の諸邦に比較すれば、寒暖、大いにその度を異にするといえども、人類の棲息に不適当なるに非ず。内地より移住せし者の耐え難き実例を見ず。要するに異論者は寒威酷烈なることを盲進して墟想にすぐること多し。
あえて論者に数歩譲り、積雪屋を埋め、寒威膚を裂くことありとするも、生幽梢々繁殖するに従いて荒●を開拓し、山林を伐採し、汚沢を疎通し、もって瘴癘の鬱気を排除し、雲霧の閉塞を破るにいたざらば、風雨の時を遊ばす地気和順随いて気候の温暖をきたすを得べきこと、これを物理に推し、実績に徴するに瞭然として明らかなり。ゆえに今日の寒冷も決して憂慮するに足らず。
かつ気候寒冷なるの地に居住する民族と、暖地の民族とその勤情を比較するに、大いなる差があり、暖地の民は常に貧弱にして、寒地の民はおおむね不況なるゆえんなり。ひとり財産の貧富をことにするのみならず、身体気力の強弱、知識才能の優劣、日を同じくして語るべかざるなるものあり。これ暖地の真にたむたのむべからざをして、寒境なる北海道こそ我が国、富強の根源にして真に吾人が他日の幸福繁盛を期すべき楽土たるべきなり。
読者諸氏に請う、その昔英国人が米国に移住して今日の文明の新世界を開きたるの実績を調べ、その難易損失を対照して今日北海道開墾の事業を質せと。

開拓使農場での西洋式農耕実習(明治6年頃)②
■毫も内部の開拓に障るところなし
第二には、本道は山岳10の8を占め、荒野・平原その2にいるといえども、なお9万7000町歩の上田圃を得べく、かつ細かにこれを推算せば、草丘汚沢中さらに数十万町歩の耕地および牧場を得べし。しかし、関西諸邦のごとく島嶼および山谷に未据を及ぼさずにいたるは、その面積を推し図るべからずなり。
今、仮に内邦一方里内の平均人数を4分し、これを北海道の全面積に乗せれば、すなわち291万2900余人にして、今日の人口の10倍にしてなお余りあるものなり。
北海道の広原平野にいたるところ肥沃なるざるく、五穀蔬菜の耕種に適せざるなし。これ開闢以来滞積し腐壌と川沢の流れなる新沈積層より、この膏油(こうゆ=粘度の高い油)を与たうるものにして、実に天与の宝庫と言わざるを得ざるなり。
また山岳大がゆえに陸運の便に乏しく、ために内部の開墾に不便なりというも、本道は巡らすに海水をもってし、沿岸港場少なしとせず。かつ物産を殖生すべきの地は多く大河の畔にあるがゆえに、船楫(しゅうしゅう=船で運ぶこと)をもって貨物の運搬に利すべく、冬間は橇(そり)車をもってこれに代わるを得べし。ゆえに内外の運送に不便ありてために毫も内部の開拓に障るところなし。
■功利共に最も内地の数倍するゆえんなり
第三は、本道の人口は疎薄なり、かつ漁業の利厚くして農業の益薄きをもって、農事に人を使役せんと欲せば必ずあまたの費用を要せざるをえず。ゆえに農事は損益相償うを得ずというといえども、これ大にしからず。
従来、内地において耕転の業をなす。みな人力に拠らざるなく、牛馬あるいは機械を使用するべきは極めて少なし。これはその人口のその土地に比すれば数多くなるに従って、旧来の習慣にて田畝を小区画に分かちて、一人一家の農業にては規模狭隘にして、器械をもちうべき広大なる余地なきと。
また、賃金の平低なるなど種々の原因により、農民各自が力作に出がゆえに人力を要すること最も多しといえども、本道開墾の如きは西洋風の耕作法を行うこと最も便利にして、牛馬を使用し、改良したる農器を運転するがゆえに人力を労すること極めて少なし。これ高賃の耕夫を使役せず、しかしして功利共に最も内地の数倍するゆえんなり。
かつ空手の士族および喜随(原ルビ:ヴォリンタリー)の農民を移住せしむるその方法を得れば、欠乏なる人力を得ること最も容易なるべし。なんぞ必ずしも高賃をもって漂々然たる漁民の徒を使用するを要せしや。
■世人北海道あるを知らざなり
しからば、すなわち北海道の開墾は何がゆえに興起せざるか。
曰く「世人北海道あるを知らざなり。北海道あるを知って北海道は実に日本帝国の宝庫たるを知らざるなり。その宝庫たるを知って、これを開発利用するの心志気力無きなり」
余これを痛感することここに年あり。これをもってつとに北海道各地を歴遊すること前後3回。渡島、胆振、後志、石狩、釧路、根室の6カ国を経過し、足跡を未だ印せざるの地はつとめて他の見聞せしところによりて得るところ鮮少ならず。ゆえに余は実地の経験に基づきさらに論旨を伸張せんとす。
【引用出典】
江南哲夫『北海道開拓論概略』1882・10-17p
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/801020
①②ジャパンアーカイブズ https://jaa2100.org