北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

【同時代ライブラリー】 江南哲夫『北海道開拓論概略』(明治15年)③

 

天下の士民、募らずして集まること疑いをいれず

 

『北海道開拓論概略』②に続いて、江南哲夫が明治15(1882)年に著した『北海道開拓論概略』③を振り返ってから、続きを紹介します。②で江南は明治10(1877)年代で北海道に向けられたさまざまな疑問・否定論に反論を加えました。その上で③では開拓のすすめ方について提言を行っています。

 
江南哲夫
『北海道開拓概論』の②を要約します。
 

否定論の第一は北海道は寒冷地であって、人の移住に適さない、農耕に向かないというものである。たしかに内地と比べると寒暖の差は大きいが、人類の棲息ができない場所ではない。一歩譲って寒冷であることを認めるとしても、気候風土をよく理解して、開発を行えば、寒冷も決して憂慮にするまでもない。
 
世界を見ると、寒冷地の民族と温暖な地の民族を比較すると、寒冷地の民族の方が優秀だ。寒冷地の北海道こそ、わが国発展の根源で、われわれが幸福繁栄を築く楽土である。それでも否定論に言う人は、イギリス人がアメリカ大陸に移住して今日の発展を遂げた事実を見てから北海道開拓事業を質してほしい。

 
かなり強引な議論を展開していますが、明治15(1882)年、長い間鎖国のなかにいた日本人が世界に目を見張った驚きと興奮、地球儀の中で北海道開拓の意義を見てほしいという筆者の思いが見えます。
 

その2は「北海道は山岳多く平地が乏しいので、事業を起こすことはもとより交通を通して発展させるのに不向きだ」というものである。
 
かりに本州の人口密度を4分の1にして、北海道の面積にかけたなら、人口は291万2900人になる。北海道の大地は太古からの堆積により肥沃で、実に天与の宝庫だ。たしかに山は多いが、海に囲まれているため船で貨物を運ぶことができる。冬はソリを使えばよい。交通に不便なことはこれっぽちもない。

 
冬はソリを使えるので交通が不便ではないなど、ここでも強引な反論をしていますが、肥沃な大地であることはその通りで、現在も日本の食を支える一大農耕地帯です。しかし「開闢以来滞積」の堆積は入植後10年余りで刈り取られ、入植者は土づくりに苦しむようになりました。
 

明治6年・札幌本道開削工事①

 

第3は「人口が少なく、労働力を求めると人件費が高くて、ほとんどの事業で収支を計りがたい」というものである。
 
本州では人数の割に土地が狭く、1戸当たりの面積が狭く人力を用いるしかない。対して北海道は広大で牛馬を用いた西洋農法を用いるのに向いており、これによって労働人口の少なさを補うことができる。
 
それでも足りないとするならば、失業状態にある士族や、志のある農民を移住させれば労働力を得ることができる。どうして移り気な農民をあてにする必要があろうか。

 
江南は、明治15(1882)年の段階で、牛馬を導入した洋式農業、とりわけ農業機械を導入した大規模農業の可能性を説いています。今日の北海道を見るにつけ、すぐれた先見性と言うべきです。
 
以下に紹介する北海道開拓概論③では、北海道の人口が希少だった要因を改めて考察した後、五箇条にわたる独自の北海道開拓を提案しています。その中で広報の重要性と説いていますが、江戸時代からわずか15年で、日本人の精神はここまで近代化したのかと驚き覚えました。
 


 

■人口の繁殖を妨げしものあり

理論のごときはすでにかくのごとし。以下、移民開墾の策を論述するに先立ち、北海道の人口のことについて数言を陳せん。
 
本道の人口、かくのごとく疎薄にして、内部かくのごとく荒蕪(こうぶ=雑草が生い茂っている状態)に委ねしたるの原因を討するに、天然の事変により生じたるものあり。すなわち、地●酷寒疾病飢餓などにして、これを蝦夷年代期に徴するに、人類の減少せしこと歴々として、今なおその実跡を証するにたれり。
 
また施政上の障碍および惑溺の弊習により、人口の繁殖を妨げしものあり。すなわち旧幕府の時、蝦夷(現ルビ:アイノ)土人の土地を耕すことを禁じ、また内邦人(現ルビ:シャモ)の紊(みだ=かき乱す・みだす)りに内部に入るを許さざりしなり。
 
かつまたここに驚怪すべきは、30数年前までは後志国神威岬を越えて一婦人の奥地にいたることを得ざりしなり。かの地の俚謡に曰く「忍路(おしょろ)・高島及びもないが、せめて歌棄(うたすつ)・磯谷まで」と。もってこれを証すべき。これらの事情は本道人口の繁殖を妨害せし最大の元素というべし。
 
しかししてなお直接の障碍ありて人口の繁殖を妨げしものあり。すなわち気候寒冷なるなり。内部の荒蕪に委するなり。
 
需用品を輸入に仰ぐをもって衣食住の三者を得がたきなり。試みに本道各地についてこれを見よ。家屋用の戸、障子、筵(むしろ)席類はもちろん、建築用木材のごときも、あるいは内地より輸入するもの少なからず。
 
しかしして、大工左官のごとき職工もすべて土着の者にあらず。衣服の如きは、土人が製する木皮布(現ルビ:アツシ)および毛皮類にあらざらんは、木綿絹織麻布のごとき各種の織物ことごとく内地の輸入に係わらざるなし。
 
食物のごときも本邦人の第一生命の種子としてたのむところの五穀よりして、蔬菜及び各種の食品飲料物のいたるまでまた輸入品にあらざるなし。
 
かつまた北海道漁民の第一要具と称するところの製網の物料なる麻は、耕種すべきにもかかわらず、これを内地より輸入に仰ぎ、その他各種の物品のほとんど船積にかからざるなきなり。
 
これはみな内地の荒蕪開発せずために、農業・製造(業)の二者興起せざるによるなり。農業・製造(業)の二者興起せずして人口の繁殖せざるゆえんなり。ゆえに我が政府またはよろしく意を重要の点に注ぎ、遠大の計画をなさずして可ならんや。
 

■よろしく保護の政策をほとこさざる

けだし、本道開拓に関して政府の応ざせるに施ささる要務中に自ら緩急あり。しかしてその第一着とすべきは、本道の現状の後来の見込みと合わせてよく天下に報道することなり。
 
第二、道路を開発し、駅逓を置き、陸運の便利を通して、港場の修築し、灯台を置き、浮標を設け、航海の安全を図ることなり。
 
第三に、農工の学校および試験所を設け、模範園を造り、製作所を置き、内外各国の学術技芸にして最も本道開拓の実施に適切なるものを取り、よく天下をして容易にその利を受けしむることなり。
 
第四に、鉱山を開採し、鉄路を築造するなど、民力の容易に及ばざるも一般の公益に関すること多きものを選びて起業すべことなり。
 
第五に、無産の士族を招集し、適当の地に土着せしめ、恒の産業を授けることなり。
 
その他、漁業を保護し、通商を勧奨するなど、枚挙の暇のあらんといえども、要するに本道はいわゆる新創の邦土なるがゆえに、これを開発する、よろしく保護の政策をほとこさざるべからざるなり。
 

明治10年代、小樽忍路に集結した弁財船

 

■募らずして集まること疑いをいれず

余は上に本道未開の原因は世人の北海道を知らざるにありといえり。
故に政府及び本道開拓に志あるものは力めてその実況を報道して、移住人を勧誘するの道を講ぜざるべからずは最先の着歩にあらずして、何ぞや試みに思え。北海道を知らざるものは移住の心念あるべからず。
 
あるいはこれを知る者といえども、大いにその力を用いるは他日幸福を得べき地たるを固信させしは、容易に故郷を去りて遠く不毛の地につくことを欲せざるなり。
 
すでにその志念なくまた前途に希望を置かざるの士民をして強て移住せしめ、一時これを保護してまたこれを拘束するに規則を持ってするも完全の結果をえる能わず。明治の初年、開拓使において招集せし、歌棄余市等なる移住民の躍に証すべし。
 
しかも世人をして既に本道の実況を知り、自己の移住の利害損失を判断し、後来を応ずるにいたらしめば、天下の士民招かずして来たり、募らずして集まること疑いをいれず。
 
故に余、招来北海道移住開墾は官募私立を論ぜず。喜随の精神を発しむる者にあらざしには、北海道の事情を知らしむるにありと。
 
しかるに今、わが国一般の状況を察するに、帝に本道の真況を知らせるもの多きのみならず、かえってこれを厭悪するもの往々にしてこれあり。これ幕府の制度によりて自ら内地と交渉少なきにより、世人これを度外に放棄し、かつ蝦夷に関する著作口碑など、奇々怪々の腐説多きと。
 
開拓使の編集印行にかかる報告書の類は大いに一般世人に利すべきものあるも、容易に購買の便利を与えざるによりてしかるなり。
 
故に政府は委員を選定し、開拓使において調査編集を経たる書類に参考し、完全有益の報告書をつくらしむるか、またはさらに全道を巡歴せしめ、詳細の記事を綴らしめ、これに加うるに論説評解をもって各新聞紙上に記載せしめ、あるいはこれを印行して、各官庁、府県応、郡町村役所に至るまでよく分担して、一般市民の覚査を揺るざるは、世人の豁然(かつぜん=疑いが晴れてすっきるするさま)として、本道開拓の忽諸(こつしょ=たちまち)に可らざるを悟り、移住開墾の志念勃然と振作すべし。
 
ここにおいてこれを召募せば、そのここに応ずること、水の低きに就くが如し。あにこれを開拓の第一要務と言わざるを得んや。
 
●きに開拓使は全道の開拓を計画するときにあたりて、上に言いたる第一の着歩に注意を払わざりきゆえに、おのれに仁善の条規を設け、有益なる事業を興起せしも、世人のこれを知らざるのみならず、かえってこれを誹議するもの多し。
 

■移住人は喜随の精神を有せらざるべからず

しかして第二の事業もまたこれを等閑に附したるが如し。何となれば、その開発したる陸路は、わずかに函館より札幌にいたる45里6町歩の程路とほか、黒松内山道、根室馬車道、及び小樽余市開道を合わせてようやく20里に過ぎず。しかしてなお物産殖生の地方にして現に道路の修理開発を用する箇所は数十百里に下らざるなり。
 
港場修築の如きは、森村の●頭、小樽港の桟橋を除き、他会でこれを開かず。しかして沿岸に灯台の設置少なきは北海道の奇観なり。余は航海者に非ざるがうえに、その利害を知らずと言えども、襟裳より先、白神岬、積丹岬のごときはみな灯台を置くの要所なるべきて信ずるなり。
 
その他の耕地を測量し、山林を区画し、浮標を儲け、駅逓を置くなど、みな怠るべからずの事業なり。
 
第3、第4の事業については、開拓使、すでに創起経営、札幌農学校模範園、札幌・七重勧業試験場、各地牧場、養蚕室、諸製作所のごとは統理よろしきを得て一般人民の規本となりて、利益を起こしたるもの多し。ゆえにこの精神を継承し、仁善の条規をあらしめば可なり。
 
しかれども、政府、その方向を誤り、自己に商業を営み、もって民利を奪うことあるが如きは実に取らざるところなり。
 
第5、無産の士族を招集し、適当の地に移住せしめて確固たる産業を授けるの要務にいたりては、軽々論過ずべからざるなり。何となればそのこと関係するところ広大にして、その管理の如何によりて功業の成否を卜(と=占う)すべくればなり。
 
その詳細の方法にいたりては、この論究するの紙料を有せず。しかれども当局は常に移住人は、喜随の精神を有せらざるべからずことを記憶せざるべからず。しかしして、余は北海道移住史士族授産のことについて一言すべきは他なし。
 
官府、あらかじめ確固たる基本を立ちて、開墾条例を制定し、方向を指示し、方法を教授し、吏員をおいてこれを統理するが、または移住民中の才幹事に堪る者を選び、十分の責任を負わしめ、実行を奏せしむるにあり。乱りに規法を逸美にし、保助を寛優にし、移住民の勤精を察せざるが如きは、管理の術にあらずして、授産の精神に背理するものというべし。
 
 

 
 


【引用出典】
江南哲夫『北海道開拓論概略』1882・17-21p 
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/801020
①函館市中央図書館デジタルライブラリー http://archives.c.fun.ac.jp

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