北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

【同時代ライブラリー】 江南哲夫『北海道開拓論概略』(明治15年)④

 

北海道の大なる隠然覇王の邦

 

江南哲夫の『北海道開拓論概略』の④、最終回となります。③で江南は明治10年代ですが、北海道に向けられたさまざまな異論に反論を加えたあと、開拓を成功させるのは「喜随の精神」の持ち主と言いました。④ではさらに民間有志の力に期待を寄せています。

 
今回も続きの紹介に先立ち、復習として前回の
『北海道開拓論概略』③を要約して紹介します。
 

北海道の人口が少ないのは、蝦夷時代の極寒・疾病・飢餓などもさることながら、旧幕府時代に、アイヌの農耕を禁じ、和人の内部への立入を禁じたことも大きい。かつては積丹の神威岬を越えて女性が踏み入れてはならないとされていた。

 
本文では「忍路(おしょろ)・高島及びもないが、せめて歌棄(うたすつ)・磯谷まで」という今も知られる江差追分の一節を紹介しています。長い間、これは小樽の忍路・高島ほどの繁栄は望まないが、せめて寿都の歌棄・磯谷程度の成功を収めたいという、漁業者の野心を歌ったものと思っていましたが、江戸時代は積丹以東は女人禁制だったので、せめて歌棄まで見送りたい──という別離の歌だったことがはっきりしました。
 

神威岬・積丹町①

 

現在、北海道の人口増加を妨げているものは、寒冷な気候と内部の未開発である。今、北海道は、衣食住に係わるものの一切が内地からの輸入に頼っている。農業と製造業の2つを振興しなければ人口は増えない。政府は長期計画をしっかり立ててほしい。

 
江南はこの論のなかで三回アイヌに触れていますが、江南には、新大陸で見られたアングロサクソンの先住民族虐待のような、人であることすら認めず、侵略の障害としてしか認識しない、根源的な人権無視の姿勢は微塵もありません。このことは大切なことなので強調しておきます。
 

北海道開拓の計画には緩急がある。今すぐに取り組むべき第1は、広報である。第2は道路・港湾の開発、第3は農工の学校および試験場の開設、第4は、鉱山、鉄路の開発など、民間が参入しずらい分野に限って官業を実施すること、第5は無産士族を招集して、開拓にあたらせること。

 
以上の5点が江南の北海道開拓論の具体策です。江戸時代の終了からわずか15年後の献策ながら、あたかも現代の経済評論家が考えたかのような先進性に驚きを隠せません。
 
広報を第1に挙げるのは、北海道開拓が進まないのは「世人の北海道を知らざるに」あるからで、北海道の実況を正しく広報すると、「募らずして集まること疑いをいれず」と言います。三度に渡って北海道をくまなく探査した江南の偽ざる実感なのでしょう。今もで北海道についてはさまざまな偏見がありますが、江戸時代や幕末にはどんな「奇々怪々の腐説」があったのでしょうか。すこし興味があります。
 
そして江南は、明治維新で禄を失った士族を北海道に移住させることを再三に渡って説いています。それも、強制的なものであってはならず「喜随の精神を有せらざるべからずことを記憶せざるべからず」としています。ここが江南の北海道開拓論の大事なところと思います。
 
「喜随の精神」について今の国語辞典に載っていません。下記に
岩見沢志文の開拓功労者・辻村直四郎をモデルとした
辻村もと子『馬追原野』の一節を紹介しますが、喜随の精神とはこのような精神なのでしょう。
 

北海道の広い土地、広大な未開地が呼んでいるのは、自分のような若者だ、と運平は考え至った。
時世の波は、運平の成長と共に、封建的なものを目まぐるしく打ち破って、新しい社会機構へと移って行こうとしていた。ぐずぐずしていると、その浪に追い越され、猫の額ほどの郷里の田畑を分け争いながら、一生うだつのあがらぬ貧農の生活をしなければならぬのは目に見えている。
明治二十四年の早春、運平は学校生活にも見切りをつけて、新しい建設の波浪の中に身を投じた。北辺の処女地にこそ、自分の多年の夢を実現する世界があろうと、青年らしいひたむきな期待をもって横浜から海路を北海道に渡った。

 
明治初年に開拓使は、東京の浮浪者を集めて開拓に従事させましたが無残な失敗に終わりました。今日の北海道を築いたのは、江南が力説した士族の血を引く「喜随の精神」の持ち主でした。
 

政府当局は、確固たる方針にそって開墾条例を制定し、方向を指示し、方法を教授せよ。移住民の中から才能と意欲のある者に責任を持たせて任せよ。移住者を信頼せず、規律を甘くし、過大な保護を加えるのは、管理の技術ではない。

 
以上のように北海道開拓について私見を述べた後、江南は目前に迫った北海道3県時代に向けての提言として今回紹介する④を述べます。
 
日本ではバブル崩壊後の「失われた二十年」という時代に、官依存からの脱却、民間活力が各所で主張されましたが、その原型が明治15年の北海道開拓論で展開されています。この論からおよそ135年が経過しましたが、私たち日本人はどれほど成長したのでしょうか──考えさせられてしまいます。
 


 
■興産の道を開くは遠大の政策というべし

政府の統理を要するべきこと、大略かくの如し。その些末のことにいたりては、当務者が方寸にあるのみにしかり。しかししてなお政府の注意を喚起して、早く余制せざるべからざるは、耕地専有登記売買の弊害これになり。
 
従来の条規によりば本道耕地の下料、非常に低売なるより、富豪の者まず要衝の地を購求し、所有の目的を建てるのみにして、耕作に従事せざるもの往々にこれ多し。耕地を購求し、数年間これを放棄して耕せざるものは、官これを没収するの成規なれり。実際これを実行せざるがごとし。
 
ゆえに華族諸氏に委するもの多し。これ投機売買の滑策に出るの念にあらずとするもの、他日事業を起さんと欲するもの、あるいはこれがために得るあたわざるがごときことあらざるは、一層障害の堪えしきものというべし。当局者は、よろしく早く完全の法を設くるを希望するなり。
 
余は●きに廃藩置県の歳に一遍の論説を草して初見を陳したり。しかして、今なお一言要することあり。曰く、従来開拓使において統括せし事務で三県のほか、各省に分割せしなり。これを大いに従来の事業を改正拡張せんと欲するに他ならざるなり。
 
しかれども、従来、太政府より給わせらたる北海道開拓に消費すべき資材、定額128万円にして、新たに置く三県に開拓使事務を引き継ぎたる諸省の増額を総計して78万500円とし、これを前日に比すれば50万円を省減したり。
 
かの●●植民費のごときは、50余万円の額に上がるといえども、これに皆弁償の法を立てて貸し付けるところのものなるがゆえに、年々消費しさるところの定額と言うべからず。もっともこのかく定額金を減省したるは、とりもなおさず、開拓使統理中の事業を廃止したるものの源なり来るなるべし。
 
しかれども、本道のごときは新創の邦土にして、許多の新事業を要し、かつ開拓使の偉業を継積せざるべからざるの今日において俄然、従来の定額金を減省し、各県一徹の治衡を施して、姑息なる節略主義をもってこれを統理するは、最下の政策にして、いわゆる一文を推しみて百文を知らざるものというべし。
 
今や北海道の遺利年々数千万円にして、内邦にては空手士族の労力余りあり。すなわち一方は人の開採を待ち、一方は無事に苦しむ実況あるにあらずや。この時に乗じ、政府非常の英断をもって、この遺利と余力とを適合して、興産の道を開くは遠大の政策というべし。
 
しかしして、移民開墾のことは農務省の所管にして、年々3万円の資金にして足れりとし、以上論ぜしところの要務を放却して、顧みざるがごときあらざらば、本道10年後の有り様は、今日と異なる所なきを明言し得んや。

 

富良野下御料に入植した大和吉野団体②


 
■民利を起こすべきもの皆人民の私有とすべし

余は未だ新県の統治権限章程を見ず。また各省統理の方向いかんを知るに及ばすといえども、従前に陳述せるごとく、本道の新開の邦土なるをもって創起に係わる事業多く、ために施務の順序、整備せず、しががって臨機処分を要することあり。ゆえにその新県県令もしくは各省出張主任者に特別の権力を附し、最も重大なる事件にあらざるよりは、大概採決するを許すべし。
 
●民間に一事業を起こすに当たり、その甲部は、県庁の統理に属し、乙部は農商務省に属し、丙部は工部省に属するこという、地方庁もしくは出張所あるいは東京本省等の間に往復の労を要し、日時延滞し、事務渋滞するがごときことあれば、起業者のために非常なる不便をあたうべし。これまた当局者あらかじめ注意してこれを避けたるべき勘弁の法を設けざるべからずるなり。
 
しかれども、百般の事業すぐに放棄して、これを政府に付託すべからず。民間の有志者、決して無為提手すべきのときにあらず。目下政府の統理するところの事業中、諸製造所・牧場農園のごときは、民利を起こすべきものは皆払下げを請うて人民の私有とすべきものにして、農工学校・試験場・模範園のごときは長く官有に属すべきものなり。
 
その内部を開拓して農業を振作し、山林を伐採し、鉱山を開発するなど、みな民業として経営するを希望するところなり。
 
民間の資本を持って以上の事業を経営するに、種々の方法あり。結社営業、個人営業あり。半官半民の業も可なるべがごとし。しかしして、家族諸氏の移住もっとも功績あるなり。これらは各種民業の利害利失を痛論するは、これを他日に譲り、さらに前文の趣意を集結し、もってこの稿を終わらんとする。
 
ああ、北海道の大なる隠然覇王の邦にして、その源利ことごとく沈淪するは、天意にあらずや。これを開採して富強をはからんは、政府の率先すべき急務にして、吾人有志者の責に任すべき義務にあらずや。いわんや今、内は国基を確固にして、外はもって国権を万国に躍せんと欲する時なるにおいてや感あり開拓論をつくる。
 

 
 


【引用出典】
江南哲夫『北海道開拓論概略』1882・21-24p 
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/801020
①社団法人北海道観光振興機構・フォトライブラリー
②富良野市開基90周年記念誌編集委員会『富良野市歴史写真集』・1994・富良野市開基90周年記念誌刊行委員会

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