「道みんの日」であって
「道民の日」ではない7月17日
今日は令和に入って2度目の「北海道みんなの日」。もともと存在感の薄い記念日ですが、コロナ禍による自粛もあって、いよいよ忘れ去られそうです。なぜ「北海道の日」や「道民の日」ではなく変な名前になったのか。なぜ7月17日なのか探ってみました。

■「道民の日」ではない「道みんの日」
7月17日を「道民の日」と勘違いしてしまいそうですが、北海道の定めた公式の愛称は「道みんの日」であって「みん」は平仮名です。注意しましょう。
なぜ7月17日が選ばれたのか。北海道の公式ホームページでは
1869年(明治2(1869)年)、北海道の名付け親とされる松浦武四郎が、明治政府に「北加伊道」という名称を提案した7月17日は、「北海道みんなの日」、愛称は「道みんの日」です。「道みんの日」は、北海道のこれまでの歴史や文化、風土を見つめ直し、これからの北海道を考える日として、平成29(2017)年に制定されました。この日をきっかけに、道民の皆様には、北海道に愛着や誇りを持っていただき、道外から訪れる方、本道にゆかりのある方に、北海道の魅力を発信する機会としていただければ幸いです。[1]
となっています。
首をかしげるのは提案した日が選ばれていること。令和の改元では改元の日を5月1日ではなく、「改元に関する懇話会」が開かれた4月1日とするようなものです。
■正式な日にちは8月15日
実際にどういう経緯で北海道の名前が付けられたのか『新北海道史』(1971・第3巻)を読んでみましょう。
明治元(1868)年3月25日の蝦夷地に関する岩倉の策問の中で、「蝦夷名目被改、南北2道被立置テハ如何」との一条があり、この条項に対して格別の意見がみられなかったことは既述した(1章1節)。この蝦夷地の名称を改めることについては、いまここに始まったのではなく、古くから識者の問でとりあげられていた問題でもあった。
水戸藩主徳川斉昭は『北方未来考』で、日出国あるいは北海道と称し、さらに可知・勇威・十勝の3郡に分けるべきであるといい、また堀織部正利煕も『蝦夷地取調見込大綱』で、蝦夷地を3か国くらいに分けて国名を付し、そのうえに郡名を選定すべき意見を出している。
これらの意見は単に名義的な問題でなく、対露問題ならびに警備・行政・民政などいっさいを含む蝦夷地支配の現実的必要性から説かれていたのであった。
このような問題意識は、新政府によっても受け継がれた。とくに中央集権体制の確立をめざしている新政府にとつて、なんら地方行政組織がたてられていない蝦夷地では、いかに急速な開拓をさけんでも権力の行使もできず、支配のしょうがないことは明らかである。さらに、国名の改称などは、御一新の変革過程で旧体制的意識を一掃する意味で、必要でありかつ効果的なことでもあった。
岩倉策問では、この問題に関しなんらの意見もみられなかったが、新政府は元年4月17日に達示した蝦夷地開拓7か条のなかで、後日蝦夷の名称を改めて南北2道を立て、新たに国を分けて名目を定めることを、明確にうたっていた(本章1節)。またさきにふれた岩倉具視の元年10月21日の建議のなかにも、蝦夷地に国名を付すべきであるとの項目も含まれている。
このような動向のなかで種々審議がなされ、2年8月15日にいたり「蝦夷地自今北海道卜被称、十一箇国十一分割、国名郡名等別紙之通被仰出候事」(太政官公文録)と、布告された。
この国郡の設定とその命名に際しては、松浦武四郎の意見がもっとも大きく作用していたことはいうまでもない。松浦は7月17日に道名に関する意見書を提出して、日高見・北加伊・海北・海島・東北・千島の6道を提示してその由来について説明している。
つづいて国名および郡名に関する意見書をもそれぞれ提出し、国名については、渡島・後志・石狩・胆振・日高・天塩(または出塩・出穂)・十勝(または刀勝)・釧路(または久摺・越路)・根室・北見・千島の11か国をあげ、またその由来を述べている。[2]
この松浦の蝦夷地の道名・国名および郡名にいたる詳細な意見を基礎として討議を加え、8月15日の公布にいたったのである。
重要なポイントは次の2点でしょう。
・早くから徳川斉昭公が「北海道」という名称を提案していたこと。
・正式に公布されたのは8月15日であること。
北海道という地名が設けられたことを記念にするのであれば8月15日以外には考えられません。もし、終戦の日と被るのならば旧暦の8月15日を現代歴に当てた6月29日にするという方法はあったはずです。
徳川斉昭公の『北方未来考』については来年のテーマにしたいと思いますが、斉昭公の提案は広く知られるところで、蝦夷地の新名称については松浦武四郎がどのような提案をしようと、「北海道」が採用されたと考えられることから、なおさら7月17日が選ばれる正当性が理解できません。制定の経緯を調べる必要がありそうです。
■平成25年の民主党プロジェクトから
8月15日が北海道の歴史にとって特別な日であることは、大正7(1918)年の「開道50年」でも、昭和13(1938)年の「開道70年記念祝典」でも、この日に式典が行われていたことで明らかです。「道民の日」を設けようという声は、昭和43(1968)年の「北海道百年」を受けて高まり、昭和51(1976)年には「道民の日の推進協議会」がつくられたが、制定に至りませんでした。
現在の「道みんの日」につながる動きは、平成25(2013)年3月の第1回北海道議会で民主党の星野高志道議が
民主党会派には「道民の日」プロジェクトがあります。かつて、知事にこの話を伺った際、非常に興味深い取り組みであり、道としても応援する旨の答弁をいただきました。心強い限りです。道民の一人一人が、心に、建国の気概を決意として秘めるならば、そこにこそ、知事が言う自立した新生北海道が待ち受けているでしょう。言いかえるならば、未来への扉を開く決意でもあるからです。知事に建国の意気込みがあるのなら、知事みずからが、建国記念日として意義を持つ「道民の日」を設定し、道民が故郷に思いをはせ、静かに建国の決意を固める日にされてはどうでしょうか、伺います。[3]
と質問したのが皮切りで、高橋はるみ知事も前向きな姿勢を示しました。
■迷走から生まれた迷称
しかし、この後、日にちの選定や名称めぐって迷走。平成28(2016)年11月になって「北海道みんなの日」とすることで道議会各派が合意しました。このことを北海道新聞(2016/11/03)は次のように伝えています。
名称変更は、自民党・道民会議、民進党・道民連合、北海道結志会、公明党、共産党の5会派が非公開の条例検討会議で協議した。出席者によると「道民の日」「どさんこの日」などの候補が挙がったが、略称が「道みんの日」となることも支持され、北海道みんなの日を選んだ。各会派内の手続きや道民への意見募集を経て正式に決める。
道議会5会派は昨年9月、「道民の日」制定の準備会を発足した。名称は広く北海道ファンに親しんでもらおうと「北海道の日」とし、日付は幕末の探検家・松浦武四郎が1869年(明治2年)に「北加伊道(ほっかいどう)」の名称を提案した7月17日とすることで一致。今年6月から検討会議で条例の中身を詰めていた。
これに対し、札幌市内の神社関係者が道や道議に、明治政府が太政官布告で「北海道」と定めた8月15日にすべきだと文書などで抗議した。しかし道議会側には「アイヌ民族の中には明治政府が進めた『開拓』を節目とする歴史観に抵抗を感じる人がいる」との懸念があり、日付ではなく名称の変更で対応した。
草案には、制定の意義について「アイヌ民族の歴史に理解を深める」との言葉も入れ、配慮をにじませた。道主催の記念行事や施設の無料開放に加え、市町村や団体に関連事業を行うよう求めることも明記した。[4]
北海道開拓の排斥を進めた平成30(2018)年の「北海道150年」の流れの中で、正当性の疑わしい日付が選ばれ、後ろめたさを覆い隠すため、道民のみんなの日=道みんの日というなんとも醜い名称が付けられました。
「北海道みんなの日」は「北海道の価値を見つめ直しこれからの北海道を考える日」だそうですが、設立の経緯からして記念日としての意義をうしなっています。おそらく数年のうちにあったことすら忘れ去られるでしょう。
逆から見れば、高橋道政がすすめた北海道開拓の排斥が、「これからの北海道を考える日」を奪ってしまったということができます。これも開拓をめぐる歴史の歪曲がもたらした悲喜劇のひとつです。
【引用参照出典】
[1]北海道公式サイト・ホーム > 環境生活部 > 道民生活課 > 北海道みんなの日 http://www.pref.hokkaido.lg.jp/ks/dms/ss/717/event.htm
[2]『新北海道史 第2巻』1971・104-105P
[3] 北海道議会 会議録「平成25年第1回定例会-03月08日-07号」
[4] 北海道新聞朝刊全道・2016/11/03