北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

 

堀基との出会い

 
厚田村聚富からトウベツ原野へ、貸付地の変更を願い出るために札幌本府に赴いた吾妻謙(作中では阿賀妻謙)は、開拓中判官・堀基(作中では堀盛)と会うことができました。
 

 

堀基

 

旧岩出山伊達藩主従の3度目となる変更願に、交渉は難航するかと思われましたが、堀基は思いのほか気さくに対応します。そして堀は判官が呼んでいると言われて席を立ちます。
 
待つ間に、堀のお付きの者が主人の人となりを紹介し始めました。なお堀基とは『北海道歴史人物事典』によれば次のような人物です。
 

■堀基(ほり もとい)
天保15年~明治45。開拓使官吏。薩摩(現鹿児島県)藩士。江戸の川太郎左衛門に砲術を学び、また北辺のことに関心を持った。坂本龍馬と北行を企てたこともある。戊辰の役に参加。のち開拓使に入り、主として樺太のことに携った。屯田兵の創設と共に准大佐に任じ、西南の役に出征した。
 
明治11年、屯田兵事務局長を最後に実業界に入り、日本郵船会社理事などをつとめた。北海道庁が置かれると理事官となり、大いに羽振りを利かせ、北海道炭礦鉄道会社を創立して社長となったが、専断のことが多く退職させられた。
 
そのあと私費を投じて北鳴学校をおこし、札幌農学校教授新渡戸稲造をして斬新な教育を行わせた。晩年、貴族院議員に勅選されたが病気がちで振わなかった。(『北海道歴史人物事典』1993・333p)

 
開拓使の薩摩閥を継承して明治時代の北海道では絶大な影響力を誇った人物として知られています。
 

第二章

 

(四)

 
鳥羽伏見の戦争に動員された薩藩兵士のなかに、堀盛というその男は伍長として参加していた。卒を引きつれて守護した公卿の邸が清水谷であり、そこの食客に岡本監輔がいた。
 
説いて云うのには、本国に於けるこういうごたごたに乗じ、ロシヤの政策は、さしずめカラフトを占拠してしまうことであろう。政府に余力が無いならば、誰か──せめては民間の覇気あるものでも乗りこんで、この地の居民を糾合して防衛しなければなるまいもの。
 
その覇気あるものに自らを擬して出かけたのが、今この使庁の人気を高めている堀盛その人であるというのだ。
 
鳥羽伏見の戦争は、直ぐにつづいて上野黒門の彰義隊、白河口、越後口、会津となって、奥羽越の諸藩が動き、そのなかのある部分を――阿賀妻らも自分の部署として受けもったわけである。
 
それらの総決算が、翌年の五月に潰えた函館の戦争であった。
 
その間新政府をよろこばないこれらの叛旗をひるがえした連中は、オロシャ人の侵略に悩まされているカラフトの同胞人を、こちらからもまた、苦しめていたことになる。
 
戦乱のために航路はとだえ、そこへ持って来て長い凍結の冬がやって来たのである。糧道を絶たれ、ロ人の武器におびやかされ、われらの根拠地であったクシュンコタンにいたこの堀は、事重大と見て取るや、結氷をやぶって蝦夷地に渡った。
 
急を本国政府に告げ、その不実を詰よろうがためであった。
 
彼はソウヤから、天塩海岸を歩いてルモイにいたり、山を越えてイシカリ川の上流に出た。しかしはるばると、ようやく辿りついた河口のイシカリで立往生した。番屋のものに捕えられた。
 
使丁の語りたいのはこの一場面であった。
 
──なにものだ? というわけですさ。
 
──間違えるな、日本政府の堀盛とは俺のことだ、と、名乗りましたな。それならば一議に及ばず斬って捨てろ。白刃をふりかぶったので驚いた。
 
──日本政府の堀盛と知って斬るのか。
 
──いかにも。
 
──それはそうでしょう、五稜廓政府の出来ていたことなどカラフトでは知らなかった。その大将が榎本と聞いて云ったそうです。
 
──生命を惜むわけではないが、とにかく榎本に会わせて貰いたいものだ。どこで死のうと覚悟の上だ、カラフト問題を埋めては死にきれない――と。そう叱りとばしたのが、それがあの堀さんですよ。
 
函館まで護送させて──そこはさすがにおん大将ともなる榎本の釜次郎さんだ。両雄相見てたちまち意気投合したんでございますね。大したものですよ。榎本さんは云いました。
 
──お身はその足で直ちに日本政府に申告するが宜い。われらが軍艦にて津軽までお送り申そう──と。昨日の敵は今日の友ですよ。
 
大臣級の人物が来なくッちゃア──と、黒田さんを引っぱって来たのも堀さんですよ。黒田さんと云えば函館戦争の参謀で、榎本さんたちの助命についちゃア頭をまるめたあの人で、西郷さんの弟分で──。
 
阿賀妻は手をあげて話を抑えた。
 
「お茶を一ぱい頂きたい」
 
「これは恐縮いたしました」
 
「町を一まわり致してみたく存ずるので」
 
彼はそう云って腰を浮していた。
 
外の空気を吸いたいと思う気持であった。枯れて行く建築材の臭気と、埃ほッぽい風が隙間から降っていた。戸外の空気に触れたいのは、何か混乱するものを感じていたからだ。
 
親しみ易げな印象を得た堀大主典の応接に、うっかり寛くつろいで、その一瞬の気ゆるみに、ついと足をさらわれたような心のよろめきを感じた。話の長びくのも気になって来た。
 
はい、左様か──と、それで引きあげられない立場でもあった。考えを整理するために空の青さを仰ぎたいのであった。
 
午後の陽は散らばっていた。行きわたり兼ねるような広い空は、晴れてはいるが青くは見えないのである。吹きまじる風が陽のかげをうすめるのだ。仔細に見れば、町というには名ばかりであるが、家々が、木目の白さを競っていた。
 
しかし、官宅の堂々さに比して、東西に画る火防線を界にした南の町地には、昔のままの草葺小屋も雑居していた。果して永住の地となるかどうか、人々の気持はまだきまっていなかった。
 
官庁のおこぼれを拾って跟ついて歩く一連の人民たちであった。それとは語らないが、彼らの経験からして、たとい、ばたばた土木を起しているにしろ、この官が果して動揺しないかどうか。
 
半信半疑をその生活の仕方にあらわした大部分のものは、吹けば飛ぶような草小屋で商いをはじめていた。いざと云えば、ひと抱えに掴んでどこにでも落ちのびられるような手軽な世帯を張ることによって。
 
「お頼み申す──」と彼は一軒のよろず屋をのぞいた。
 
「何だね?」
 
その声は店先に寝ころんでいた。斜めの陽が半身を照して、その男の額と鼻に汗のつぶを出していた。
 
「米の値はどのくらいいたしておる?」と彼は云った。
 
「米は要らねえよ」
 
「売ると云うのではない、値はいかほどだ?」
 
「一円──だ。せいぜい」
 
「なに?」
 
「一俵一円なら──というのさ」
 
「一俵が一円?──」と阿賀妻は目をまるくした。思わず声が大きくなっていた。
 
それが、米の出来ないこの土地の、この季節の相場であった。
 
前の年である。移住のために食糧の準備をした彼らは、凶作のあととは云え、米作地で、石十円に近い米を、それも、後日を慮って二年分の見越しをつけて買い込んだ。豊かにもない資金をやり繰って、その大半を和船の廻送に頼んだが、未だに到着していなかった。
 
一日二日、当面のしのぎに──と、食いなれないサイゴン米を噛んでいた。そのときここでは一俵一円と称している。
 
「売り値は幾らか」
 
阿賀妻は詰るようにそう云った。
 
うっかりしていると、ぬッと頭をもたげる昔の切り口上であった。厳然と睨にらみつけていた。店番の男はその語気におどろいてむっくり起きあがった。
 
「へえ──売り値と申しませば?」と彼は阿賀妻を見あげ見おろした。
 
「どうして左様な値が出るのだ?」
 
「米がありすぎて酒が足りないでございますな、だんな」
 
「それはどういうことじゃ」
 
「じゃアだんなは官員じゃねえんですな。官員さんは米を持て余していましてね」
 
「なぜ持て余す?」
 
「先ず──俸禄が多すぎるんでしょう、結構なこってすよ」
 
「左様か──そこの手拭(てぬぐ)いを貰おう」
 
店番の男はそこから動かなかった。煙草を吸いつけて云うのである。
 
「どんな色だね?」
 
「白地にいたそう」
 
「そこに積んであるのを取りねえ」
 
阿賀妻は云われる通りに白地の手拭いを一本抜きとって一両の太政官札を投げ出した。
 
「これで──釣をいただきたい」
 
「なに? 釣? 釣はありゃせんぜ」
 
そう云って、煙管をぽんと叩いて彼ははじめて立って来た。
 
「どうです、もう一本、この藍地の手拭いを買っときなせえ。冬になったら何ぼになるだかわかりませんぜ。このホシはどうですえ、りっぱな紺だ。それからこの股引は、ね、釣が無えんだ仕方が無え、これで一両と負けとくさ」
 
阿賀妻は買物を一つかみに握って引きかえした。
 
それ以上町屋の間に足をふみこむ気持の余裕を無くしていた。心のどこかでぶすぶすと燻っている火があった。身内に漲る熱っぽいものに足ははずんでいた。一直線に使庁の門をはいり、案内知った堀大主典の部屋にとびこんだ。
 
「まだ、戻られぬか?」
 
彼は、そのものの空席を見ながら誰にともなく云った。
 
「どなたでしょうか?」
 
そう問いかえす一人の男に云った。
 
「よろしい身どもが探す」
 
彼は使丁室にはいった。荷物をまとめながら彼は云った。
 
「判官どのの部屋に案内いたして貰いたい」
 
けれども使丁は聞きかえした。相手の変化に面喰っていた。
 
「なんでございますか?」
 
「拙者は伊達の家臣にて阿賀妻謙と申すもの。──岩村判官どのにじきじきお目にかかりたい、左様お取次ぎ下さい」
 
「はい、はい」
 
使丁は一足出てただちに引きかえして来て云った。
 
「丁度──お呼びでした」
 
堀盛が廊下の彼方で手招いでいた。
 
「出来た」と彼は一言云った。
 
光りのかすれたようなその場所で立ちどまって、阿賀妻はしばらく無言に相手の眼を見ていた。表情が停止するひとときに、彼の昂奮はどこかにさっと、音もなく流れ去ってしまった。眼尻にしわが集まって来て、唇がすぼまるのである。
 
相手の態度も同じように動かなかった。しかめたような眼をして眺めあっていた。阿賀妻がかすかな笑みを見せたとき堀はぬっと右手をつき出したのである。
 
「これです。ごらんなさい」
 
無雑作におしつけられた奉書紙の一片は、阿賀妻にとっては膝まずいて押しいただきたいものであった。天と地の折目をのばして、一折りずつひろげると、先ず主人邦夷の名が例の通り低く書かれて、
 
「其方へ、石狩国石狩郡ノウチ、トウベツノ地一帯ノ貸付被仰付候事」と二行に書き、「明治四年六月、開拓使」と署名されていた。
 
阿賀妻は声に出して読みおろした。二度三度繰りかえすうちに、何か張りあいの抜ける寂しさを味わった。
 
今回、いろいろな条件の悪化が、最も至難であろうと決意していたに拘らず、当然予想された力説や嘆願の手を用いさせないで、あまりに手軽にこの墨付きを受けてしまったのだ。
 
「よろしいか」
 
そう念を押されるまで阿賀妻はぼんやりしていた。
 
「たしかに」と彼は奉書をおし頂いた。
 
「図面の写しを慥えたりしていたので、おそくなりました。将来のことも考えて頭書のような文面にして置きました──ちょっと挨拶して行って貰いましょうか」
 
堀は判官の部屋に目くばせした。
 
「ご尽力──ありがとう存じます」と阿賀妻は頭をさげた。
 
「いや──」と堀は手をふった。
 
阿賀妻らの請願がこちらの方針に合致したに過ぎない。だが、そんなことは云わないで、彼は事務上のことを注意した。
 
「請書は拙者の方でいただきます。待っていましょう」
 
その足で彼は使丁を呼びつけた。
 
「馬を──」と彼は命じた。
 
「今から、また、どちらです」
 
「イシカリだ──」と短かく云って、出かけて行く男のうしろから叫んだ。
 
「二頭──二頭だぞ」
 
そう云ってしまってから彼はにやりとした。
 
官業の牧舎に役所の乗馬は飼われていた。それが唯一の交通機関であった。自分の椅子に頬杖をついていた堀大主典は、はいって来た阿賀妻を見て気づいたように云うのであった。
 
「どうなさる?」
 
「一刻も早く、このありがたい恩典を、主人邦夷、並びに家中のものに──」
 
そう来るだろうと予定していたように、その役人はがばッと立ちあがった。
 
「イシカリまでお供しましょう」
 
ふいと阿賀妻は相手の顔を見直した。別にかわったことも無かった。にも拘らず彼はのそのそ身支度をした。くそ落ちつきに落ちついて、ばか丁寧に荷ごしらえをしていた。
 
その間、根気よく、堀は玄関で馬を乗りまわしていた。改った身支度もせず、彼にとっては役所の延長のような気軽さであった。持ち前で眉根まゆねをしかめていた。漠然と横目を流した掴みどころのない表情で、癇かんの立った馬の背に乗ってぐるぐる廻まわっていた。やっと阿賀妻が出て来たとき、彼は馬上から、使丁に口を取られた他の一頭を示して叫んだ。
 
「お乗り下さい」
 
「さりながら──これは」と、草鞋ばきの男は躊躇した。
 
「他意ありません」
 
「それでは──」と、阿賀妻は手綱を取った。馬の首を揃えながら彼は聞いた。
 
「イシカリは急用でござるか?」
 
「なに、明日、税庫の建築につき、商人どもの工事請負に入札をいたす。本日はその敷地を検分しておくため、──何分とも商人ども増長いたし、困難いたす。しかし、阿賀妻さん」
 
そう云って馬を近づけられると、阿賀妻は手綱をしゃくって避けるようにした。個人としての親しげな態度にはぴんと刎ねかえすものがあった。身分から来るなじめないものの反撥であった。けれども堀は語りつづけた。
 
馬は、さい前阿賀妻の歩いた路を、逆に、ぱかぱかと急いでいた。馬の背の上にいて、原野の展望を指で差し示しながら堀大主典は喋っていた。
 
「阿賀妻さん、ごらん下さいましたか? サッポロ府の広袤(こうぼう)は方一里。オダル、ゼニバコ街道とチトセ越えの本願寺街道も通じました。――これを取り巻く農村は、庚午一、二、三と合せて九十六戸の二百人、サッポロ村は二十二戸の九十六人が昨年でした。
 
今年になっては、ツキサップに盛岡県人四十三戸百八十五人。ヒラギシには士族平民取りまぜて六十五戸。シノロに四十二戸、ツイシカリに二十四戸。バンナグロに三十九戸。やがてイシカリ川の向う側にも、先ずオヤフロに二十九戸が予定されています。
 
シライシ、テイネには、白河の家中片倉小十郎の旧臣百五十七戸が引きうつってまいります。ごらん下さい、あの開墾小屋を――樹幹をすかして点在する村々を。
 
──けれど、北海道全体から考えれば、こんな移民は数にはいらない。そのほとの強制移民であればなおのこと。──あなた方はちがいますよ。先ずサッポロを中心に、兵農兼備の屯田兵を養わねばなりません。
 
ご承知でしょうか──国内で争っているうちにオロシャはカラフトを完全に占領しました。いつ当地に寇(あだ)するやも知れません。しかも、われら青二才が申すまでもなく、兵の強さは兵站部の強さにある。その農を──ご承知でしょうか──長官は範を求めてアメリカにまいりました。文明開化のお傭い教師を連れて来ました。間もなく技術者がこちらに参るでしょう。阿賀妻さん──計画は実行を伴わなければ、そして、こういう実行は、二年や三年では芽は出ない。
 
堀はそれだけのことを、何かねちねちとこちらの胸に塗りたくるようにして云った。それが云いたいばっかりに彼は馬を饗応し、イシカリまでの同行を思い立ったのかも知れない。官の威を示す言葉とも見えれば、協力をもとめる切なる望みとも聞える。
 
サッポロを離れた当分の間は、数えあげる移民の家もそれらしくちらほら見えたのであるが、シノロ、バンナグロとなればひろい原野の見判けもつかない。取りあえずこれらの土地が下附されているという。捨て売りするほどの俸禄を食む官吏と、それの直接の庇護のもとにある移民であった。
 
イシカリ川の片側を官用通路に沿うて、わずかに拓けかけているほそぼそとした姿であった。そして、それだけである。対岸一帯の原野には一指も触れていない。原始のままに放りだされた樹林の濤には際涯が無い。
 
──青くけぶって、西北の彼方に見えるのがマシケの山々。その麓からシラッカリの渓谷を越え、尾根をわたればわれらのトウベツの地。
 
しかし、ここからは望見することも出来ないのだ。それほど奥まった地を自分の手で捜しあて、そこに行くことを、有りがたき仕合せとしているのが阿賀妻らの立場である。
 
明るみから暗いところへ、曲りなりにも緒についた官の意企に従って、そう──微かながらも植えつけられた文明の場所から、彼らは進んで、求めて、榛莽の密林の土地に脱にげこもうとしている。
 
二人の男は、どちらもはなはだ表情に乏しい。彼らの時代がそういうふうに訓練していた。苦楽や喜憂に特別心をみだすほどのことはないのだ。ただその芯には、つめたい鉄の棒みたいな意志を埋め、しわりしわりと瞬きをしている。
 
落日に向って彼らの馬は急いでいた。手綱をしゃくられて長い頸を立てる馬は、ふりかぶる鬣の下に丸い眼を見ひらいた。ぎらりと赤い夕陽が反射した。堀大主典の馬がだく足で前に出る。せまい刈分け路では二頭の馬は轡を並べる余地が無かった。
 
むろん、もはやお互いでも、話すべき何ものもなかった。おのれの思いに沈潜するのだ。鬚のない堀のぬるぬるしたような顔には照りつける赤い夕陽が揺れている。馬の背の反動に、ざんぎり頭の髪の毛が波をくらった海草のように浮き沈みする。うしろの馬は従いて走った。
 
目路のたかさに舂いた陽は、木蔭や藪の底にひそんでいた冷い空気を呼び寄せた。馬は汗を流しているが、心のなかは寒いのである。少しでも距離を大きくすることは、それだけ孤独に近づくことであった。
 
見通しも利かないほど濶い原野の夕暮れは、ひととき赫ッと輝いて、あとはたちまち時雨しぐれるようなうす墨であった。身のすくむような寂寞であった。気のよい動物である馬どもには、いち早く通ずる曠野の淋しさであった。鼻を鳴らして、たてがみを振り、目的地に向って気を立てて急ぐのであった。
 
それでも日はすっかり暮れていた。大主典を迎えたイシカリ出張所の下僚に馬の手綱を渡し、阿賀妻は挨拶をして渡船場に向った。晴れあがった夜空には明滅する星の青光りが一またたき毎に増した。水は、はるかな海も、目の前の川も、一様にくろずんでいる。波うつ水面の絶えまない揺ぎが、暗闇のなかにぴらぴらと見わけられるに過ぎない。
 
渡船の客はまたしてもたった一人である。舳にカンテラを吊してゆるやかな櫓の音を立てて動いていた。底の浅い船は、中流までは川上に斜めにのぼり、向きをかえると押流されて予定の向う岸に舷をこすり着けるのである。夜の川風は冷えていた。大腿にしこった疲労を意識して阿賀妻はうとうととした。船の動揺は心の疲れも呼びだした。人気のない暗やみに来て、はじめて自分を投げだした。
 
つづく砂浜の路を、彼は一散に駈けつけて行った。彼らがつくったシップの部落には、目を閉じていても辿りつくほど馴れていた。いくつかの砂丘の間をくぐり抜け、それとなく漂う人間のにおいが本能のように彼を導くのだ。
 
野にあがれば、焚火の洩れる草葺小屋が見えて来る。音もなく声もなかった。今宵もちょろちょろと火を燃していた。口には出さなかったが、心許ない夜々であった。彼らの仲間はそういう日と夜を、ぽつねんと迎え、ぼっそりと見送っていたのである。
 
 
 

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