下された当主の決断 移民団は冬を越せるのか?
前回から間隔が空いてしまいましたので、これまでの物語を簡単に振り返ります。
厚田村聚富に入植した岩出山伊達家移民団に割り当てられた土地は、農耕には適さない不毛の地でした。春に入植し、すぐに開墾して秋の収穫を得て冬を越える計画が崩れます。加えて宮城から送付した物資の大半が失われ、勘定方の高倉利吉は責任を取った切腹してしまいます。
一方、家老の阿賀妻謙(史実では吾妻謙)は、当別地区の探索を行い、有望な土地であることを確認し、厚田村聚富からの配置換えを開拓使に願い出ました。
岩出山伊達家移民団は、空知の中央に入植地が割り当てられたもののあまりにも奥地であるとして配置換えを望んだ過去があり、度重なるわがままに交渉は難航するものと思われました。
しかし、聚富では家臣団を養うことはできず、移住を成功させるためには当別への再配置替えを実現するより無かったのです。この難交渉を岩出山伊達家当主・伊達邦夷(史実では邦直)は信頼する家老の阿賀妻謙に委ねます。
決死の覚悟で札幌の開拓使を訪ねた阿賀妻ですが、対応に当たった開拓中判官・堀盛(史実では堀基)は、拍子抜けするほど簡単に阿賀妻の願いを聞き届けます。
しかし、当別への貸付証書を胸に喜び勇んで聚富に戻って阿賀妻を迎えたのは、勘定方の高倉利吉の死を悼む邦夷家中の沈んだ顔でした。通夜の席で高倉の未亡人は「この移住は失敗だ。国に帰りたい」と泣き出し、重い空気に包まれます。
これを黙って聞いていた伊達邦夷は阿賀妻に交渉の首尾を尋ねます。阿賀妻は開拓使の証書を差し出しました。邦夷はこれを読み上げて「これで、決まった」と宣言。それは故郷に戻ることを止めて、開拓を続行する宣言でもありました。
もっとも、家老である我妻には、失われた物資と不毛の土地、そして近づいてくる冬という難題が残されたのです。
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第二章
(七)
邦夷にとっては自分を納得させるこの言葉が、この場合、同時に、人々にとっては、申し渡されることであった。そういう結果を計算に入れていたのかどうか。これは強制と信頼のきわどい岐れめであった。座に列らなっていた家臣は「はあ――」と平身していた。けれども、反省は直ぐに俯向いた彼らの眉間に、一そう深刻なものとしてあらわれていた。胸はつかえていた。疑惑は明瞭りしたかたちをとって感ぜられた。
一時は、あまりに騒々しい高倉利吉の妻の毒ぜつによって見うしなわれていたもの、即ち、その悲嘆は、さもあろうと思いやっていた裏側では、攪きまわされる不安のなかに次第に凝固する恐怖があったのだ。
――はたしてこの地つづきの原野に、報告されたほどの豊饒な土があるか? 鍬ふるって開墾するだけがわれわれのあたえられた途か? 土民になるのが唯一の生きる途であろうか?
この途には、想像していたことよりももっと刻薄な欠乏が際限なくつらなっているような気がして来た。それを裏書きするためには、過ぎた一カ年で充分であった。霜にうたれてちりちりと枯れはてた草木の上に、雪はくろずむほど降りこめた。彼らの郷里にも雪はあった。しかしこの地の雪には棘があり針があった。寒流に乗って北から運ばれ、何カ月も何カ月も地表は凍えていた。濶い雪の曠野には、風をさえぎる何物もなかった。そういう吹雪に明け暮れて、彼らの草小屋は今にも吹きたおれそうであった。一夜中吹きこんだ粉雪は、夜が明けると、まるで彼らを雪の野原に埋めていた。
それが、農夫になろうと決心した彼らの最初の越年であった。何から手をつけてよいかわからない彼らは、夕暮れになると、必ず烏の鳴きごえを聞いた。その不吉な鳥だけが後を慕ってやって来ていた。
この同じ地つづきと云うならば、事態はここよりも善かろうと考えられないのだ。そしてもはや夏になっていた。駈け足でおし寄せて来る秋――ある朝目ざめて見れば一面のまッ白い冬。それもそんなに遠い日ではない。
今や彼らの手もとには、この冬を凌ぐべき糧食の貯えもなくなっていた。どんなによい地味であっても、冬にみのらせることは出来ない!
彼らは習慣によって頭を低げた。けれども満足してあげることは出来なかった。言葉の意味を考えて、その真意に思いあたるとちょっと蒼ざめた。聞きちがいではないか。――そう思って、ランプのもとの邦夷を見つめた。知らず知らずに彼らの瞳はかがやいているのであった。邦夷もまたそれを感じた。何かそぐわない気持であたりを見まわして云った。
「どうした?」
「はあ――」
彼らは左右のものの顔色を、お互いにそれとなく見定めようとした。
「勝手ながら」とふいに阿賀妻は腰を浮した。
「食事をしたためたく存じますので」
それは咄嗟に出た思いがけない言葉であった。しかし、云ってしまった彼は重苦しいものから脱けだすことが出来た。実際彼は、風の吹きぬけるような空腹を覚えていたのである。
「さあ、さあ――」と、幾人かの声が、これもほッとしたように彼を送りだした。
外に出た阿賀妻は、目の前に立てこめた暗やみにたじたじした。灯りと人混みから一足はなれただけで、こんなに厚ぼったい闇があろうとは考えてもみなかった。行く手がはばまれているような気がした。
――いや、自分は腹をこしらえねばならぬ、と思いなおした。――あの座の雰囲気から脱のがれて来たのではない。
だが彼には、ああなった以上彼らの気持がどの方向に動くかは目に見えていた。喰い止め兼ねる主君は、開拓主事である阿賀妻に援けをもとめるにきまっていた。そのときそこでこの流れを堰きとめる力が彼に在り得たか? ――むろん無かった。
身をこわすより手はなかった。ひどい空腹であった。喜んでくれるであろうと思った貸付け地の許可は、反対にありありと不安を募らせた。
対置する計画を立て、説得し、惹きつけ、定めた方針にいちずに、思いを新たにして立ち直らねばならぬのである。あざ笑って、しかもどこか心の片隅でそれとなく期待した偶然や僥倖からは、完全に見離された。その日その日の明け暮れが、人々の心を刻々と郷里に追いもどしていた。
郷里を思うことはむかしの生活をなつかしむことであった。あたえられた俸禄を食んで、無為に暮した日を追想することであった。それを剥奪された日の傷心は日とともにうすれて、あたかも自分の自由意志で今日の苦しみを招いたような悔恨に取りつかれた。すると、一つにまとめた開拓への昂い意志は、悪い条件に出逢うたびに、ひきおろされ、ひン曲げられ――今や踏みにじるのも止むを得ないと彼らの顔色が叫んでいた。
坐って、いつも先方からやって来る打開の道を待っていた彼らにあって、しかし、ようやく、善悪は別にしても、とにかく動きださねばならぬぎりぎりのところまで来ていた。これは崩れて行くいきおいであった。その一点に双手をひろげて立ち向って、逆に盛り返して行かねばならないのである。
そのとき彼の脳裡に何がひらめいたか! イシカリ税庫の入札であった。
「よろしい!」と彼は声にだして独り言を云った。
まッ黒い広大な夜のなかに、彼は白い線で浮びあがる自分の考えを検討しながら歩いて行った。更けた夜が痩せぎすな彼の肌にひえびえと触れていた。足くびにからまる草の葉は冷たく露をもっていた。睡っていても行き着くであろう自分の小屋へ、彼は脚にまかせてゆっくり歩を運んだ。身体はしずかに動いていたが、頭は次第にあつくなっていた。
阿賀妻の計画のまン中には、彼が今日はじめて逢った堀盛の顔が浮んでいるのだ。ひげのない下膨の顔はてらてら脂ぎった感じで、どちらかと云えば気味の悪いような印象であった。多分その男の皮膚は限りもなく厚いのであろう。表情の変化も見えず、したがってその真意のほども測りかねた。それ故こちらは一層挑みかかりたい気持をあおられた。相手にとって不足はなかった。彼らの一団がぶっつかっているこの窮境がそういう彼の気持をはずみ立たせる直接の原因であった。
しかし、このうずくような快さは、それとは別に、間違いなく彼個人のうちにある闘争心であった。こちらの胸のうちを覗きこんだような堀の斡旋を考えると、あんなに好都合に行ったことが腹立たしく、むしろ敵愾心が刺激され、彼はうずうずした。空腹と疲労から来る神経の昂ぶりであったかも知れぬ。いずれにせよ、あの男のことを考えると膂力が全身にみなぎって来た。
「待っていろ!」
彼は闇のなかでそう顎をしゃくった。そして、力をためすように肩をどんとぶっつけて戸をあけた。
「はあ?」という抑えつけた叫びが聞えた。それから絶え入るように、
「おかえりになりました」とうめきごえを立てた。
彼の小屋のなかでは二人の女がしんみりと語りつづけていたのである。ちょろちょろと燃える炉火を間にして、聞いたり聞かせたりするうちに、おんな心はどんどんほぐれて来た。それぞれの苦しみに身体もちぢまるようであった。
戸口の物音は、二人の女を驚かした。しかもその瞬間を境いにして、二人の女の気持は水と火のように懸けはなれた。脅えたように叫んだ一人はつと浮き腰になり、すぐ何かいすくめられたように身体をこちんと固くした。他の女は手拭きを帯に挾んで見るからにいそいそと立ちあがった。主人を迎えた主婦の顔は焚火のうす明りにもいきいきと輝いていた。こみあげて来るうれしさは、他をかえりみるゆとりが無かった。とび立つように土間に駈けおりた。
こんなに早く帰って下さろうとは、――そう思うと胸が一ぱいで彼女は云うべき言葉もなかった。夫の腕をささえて上り框(がまち)に腰をかけさせ、すすぎの桶をその前にすえるのである。その水も昼のうちから、いつものように用意していたものであった。
でも、こんなに早く、その日の中に役立とうとは彼女は一度だって考えたことはなかった。それほどこの数年来の彼は家を空ける日が多かった。女には明瞭と判らない、また判らせようともしない重大げな公私の用で、「なるべく早く戻って来る」と云い置くだけである。
家を守る女は指折りながら日をかぞえた。予定より遅くなっても決して早くはなかった。やがて彼女はそれに馴れてしまった。寂しげな顔を隠して変事も無かったと告げなければならぬのであった。だが、やっぱり、旅に出たその夜からひそかに待っていたのだ。何時なんどき帰っても差支えのないように、迎える用意をととのえ、海の音や風のざわめきを聞いていた。
思いがけなく酬われたこの日の妻は、子のない若年増の媚びをたたえて、まつわり付くようにした。降って湧いたようなこの嬉しさをどうしようもないのであった。少女のように浮き立って――顔を見れば涙がこぼれそうな、こんなに男を待っていたのか、と、われと我が身が憐おしくなる切ないような気持であった。男の足許にしゃがんだが、手もとがふるえるのだ。解いてやろうとする脚絆の紐が縺もつれるのだ。すすぎに足をおとして、男はしずかにたずねた。
「お客人はどなたかな?」
あしゆびの股を丹念に拭きこみながら彼は重ねて云った。
「どこぞでお見かけしたようだが――失礼ながら、どうも」
脱ぎすてた足装束を取りまとめていた妻は、何故か耳のつけ根を赤くした。彼女は詫びるように低い声で答えた。
「トキどの――玉目さまの」
「なに?」
ぱちゃンと足をおとして阿賀妻はうしろを振りかえった。あわててその女を見定めようとしていた。
すでにトキ女は炉の前にはいなかった。いつの間にか戸口に近い下座の方に身をすべらし、音もなくそこにすわっていた。自分に向けられる阿賀妻の注意がどんなものであるか、身のすくむような思いで待っていた。こちらを向く気配にもう頭を低さげていた。そんなふうに身をかがめて、吹きつけて来る風当りを少しでも避けようとしていたのだ。阿賀妻は吐きだすように一言云った。
「ようこそ」
かすかに彼女は答えた。
「ごめん下さい」
主婦はその傍に来てぴたりとすわった。慇懃に手をつき、そこの下座から、立ちはだかっている夫に挨拶をした。
「おかえりなさいませ」
「ああ」
彼は袴を取りながら疲れた声でうなずいた。
「こちら――」と妻は語をついだ。身ぶりで玉目トキを示し、彼女のいる理由を説明した。
「今宵高倉さまのお通夜に、主人代理としてお顔出しする方がよいものかどうか、と、そうおっしゃって、わざわざおたずね下さったのでございましたが」
彼はだまって炉ばたにくつろいだ。茶を淹れようとする妻に手をふって云った。
「めしだ、めしだ」
「おお、ほほ」と、妻は気づいて、身をひるがえすように立ちあがった。
棚のお膳を取りおろすのだ。蔽った布巾をはらうと、茶碗のなかにはお初ほが、ぱさぱさしたうす黒いサイゴン米ながら、主人のために取りわけられていた。汁を酌ぐ手も馴れたようであった。刳りぬき盆をさしだして茶碗を受ける妻女は、日ごとに新しい境涯に順応し満足しつつあった。
女には、おちぶれ果てた、と、別に比べるものも無かった。むしろ、なにものも介在しない夫と妻の生活が彼女を活気づけていた。ほのかな焚火のあかりにさえ彼女は上気していた。はしたなく直ぐに笑いだしそうであった。そのくせ、物を食う男の口許を母親のように見とれる年齢に達していた。
そのとき阿賀妻の視線の片隅で、別の女は目をぬぐうのであった。彼は箸をおいて妻に話しかけた。
「そうだ、おなごはおなご同士――。高倉どのの家内もひどく傷心のように見受けた。行って慰めてあげるがよい。そなたも送ってあげるがよい」
一々その言葉にあいづちを打って、彼の妻は、眼をあげて下座のトキを見やった。
「どうぞ」
「いや、いや、そなたも、さ。お伴するがよかろうと思って」
それは?――と見なおす自分の女のほてったような眼に、男はどぎまぎと下を向いてしまった。女の気持に目をつぶって、弱まる心をおさえつけた。
「すこしこみ入った調べものがあるので」
――実は独りになって考えてみたいのであった。女たちが出て行ったあとの炉ばたで、白い灰をかぶった燠を見ながら彼は凝然としていた。
第一は、目下の食糧購入費を得るために、『税庫建築』を請負うこと。
第二には、今後の『開墾資金』として相当額の金子の貸付けを開拓使に承諾させること。
あの土地にはいって、さしあたりの自給自足が出来るまで少くとも三カ年を要すと見積る。その間を喰いつなぐ米塩の用意であった。つくられるべきわれらの新たな聚落を、すべての口数を――老若男女取りまぜて、三〇〇と見れば、千五百石は貯えねばなるまい。この金額を本年の東京相場に換算すればざッと九千円――ぎりぎり一万円と計上した。
主君邦夷にあたえられる六十五石なぞは問題にならぬ。家禄城地を召しあげられた当座の動顛のうちに、とぼしい藩庫は空々になっていた。特別の憐愍によって個人の所有に残された家財道具も、かねめのものはこのたびの旅費に消えていた。刀折れ矢尽きた思いであった。
なお生きようと考えるなら相手の武器を奪って、それで身を守るよりほかに方法はない。即ち彼は、云わなければならぬのだ。
――おん身らまことに開拓の急務を願うなら、この一万円を即刻投げだせ。庶民の幸福を思う政府であり、おん身らがその政府員と云うならば、開拓の先達たらんとし、身をもって北門警備の鎖鑰たらんとするわれらを見すてることは、天、人とともに許されまい。われらにとっては起死回生の――
誰かがにたりとわらったような気がした。そして阿賀妻にとっては、その嗤笑は堀大主典であらねばならなかった。なぜお笑いなされた! と彼はまなじりを立てた。そこから一歩も退けない交渉であった。やぶれたならばそれで自分の一切は無になり虚にならねばならぬ瀬戸ぎわであった。
太い呼吸を吐いて彼は消えかけた焚火をかき立てた。目と鼻のそこの港町イシカリに、目ざす相手は来ていた。これは恵まれた機会であるとも考えられた。そういう長い考慮の末に彼の考えはたたみあげられていた。残ったことは、どう主君に告げるべきかであった。
邦夷の名に於いてなす行動に曇りがあってはならぬのであった。痩せても枯れても堂々と進退すべきであった。
「万が一、失敗したとして、殿の名にかかわることはないか?」
そう反問した。これは難問であった。――無いとは誓うことが出来なかった。あいまいに――さあ? とかしげられる水っぽい眼、堀大主典の眼の色がぽかりと浮んだ。
「うぬッ」
彼は掴つかんでいた粗朶でおきの山をつきくずした。ぶるッと武者ぶるいを覚えた。立ちあがって、壁につくりつけてある刀架からわざものを取り外した。左手にひきつけてもとの座にどんとすわった。そして右手の、節立った五本の指を火にかざし、裏を見、また表を見、それを繰りかえした。
暫らくして家中のものがはいって来た。すると彼は、あたかも予期していたように、頬のくぼんだ顔をもたげた。
「おられますか?」とまッ先に云ったのは大野順平であった。
「どうぞ」
「ちょいと内々ご相談いたしたく――存じまして」
きつい眼をした安倍誠之助が唇をふるわせながらそう言った。そのうしろにいるまッ白い頭髪は、地位といい年輩といい、彼らの父親格にあたるあの相田清祐であった。この人が連れだっていることが何故か阿賀妻の神経にさわった。彼はむッと唇を結んで、そっぽを向いた。