北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

[沼田町] 沼田 喜三郎(下)

 
 

沼田喜三郎(出典①)

 

北海道開拓を現代の私たちが学ぶ意義の一つは、人間という生物はどこまで創造性を秘めているのか──その限界を知ることができることにあります。『沼田町史』に学ぶ沼田喜三郎伝の第2回。古今東西、私たちはさまざま偉人の伝説に触れますが、その誰を持ち出しても沼田喜三郎が劣ることはありません。何よりも感心するのは、さまざまな業績以上に大正12(1923)年という時代でありながら、92歳の長寿を全うしたところです。沼田の土地に降り立ったのは喜三郎50歳。前半生で貧農から県下一の事業家にのしあがりました。沼田の開拓に捧げた喜三郎の後半生はどのようなものだったのでしょうか。

  

■380余戸の移住者を勧誘

開墾会社が設立されたのは明治27(1894)年であるが、本格的に会社の事業を開始したのは翌28年である。そして翁は明治27(1894)年郷里から18戸の移住者を率い、4月20日、本願寺に到着して雪を掘り、木の枝や木の皮をもって被覆したムロのような小屋で辛くも寒さを凌ぎながら融雪を待ったのである。これが本町最初の入植者であった。
 
それを手始めとして、いよいよ本格的に移住者が本町に入地し、明治28(1895)年に越中および加賀から180戸、翌29年には200余戸、計380余戸の世帯を未開の地に入地させたのである。
 
そうして開墾実施に当たっては、翁はその計画者であり、設計者であり、施工者であった。しかし入地したばかりの人たちは、まだ翁の豊富な識見や経綸・才能等を理解している者はきわめて少なかったが、その身辺に漂う雰囲気から察して無条件に心腹し、感嘆してこれに従うのみであった。
 
それは多くの人に信頼され、数々の事業を経営していずれも成功を収めてきた翁の、自然に備わった人格に傾倒させられたもので、ただただ夢みる心持ちで開墾に従事したのである。
 
※ここでの注目は、喜三郎が一人で拝み小屋で越冬したという事実です。50歳という年齢であり、しかも、富山県でも、渡道した北海道でも成功した事業家。喜三郎ほどの富があれば、このような苦労を任される代人は何人もいたでしょう。それでも、開拓の試練の中でももっとも厳しい拝み小屋で単独越冬を選んだのは、これを体験しなければ続く入植者の指導をできないと思ったからなのではないでしょうか。
 

■粗衣粗食で開墾に汗を流す

開墾会社の事務所ば本願寺(北竜第1)に設置し、幌新大刀別川ぶちに馬小屋を建てた。そしてまず沼田原野地帯の開墾に、蜂須賀農場から技師を雇い、畜力用大ローラーで草を倒し、次に3~4頭曳きの新墾犂(スキ)で荒れ地を起こし、翌年からソルキーブラウの機械農法を行い、黍、菜種、蕎麦等の種を播いたのである。これを2~3年繰り返してからいよいよ北海道式畑作農業が行なわれたのであった。
 
また原始林の密集した樹林地帯はそれぞれ専門の請負者に渡し伐木した。彼らは何十本かの大木に切れ目を入れ、それを将棋倒しにする時の轟音は全山を震わせ、その光景のもの凄ささはとうてい見ぬ人には想像も及ばない壮観であり、その伐木の焼き払いも一見大山火を思わせるような新開地特有の光景を現出しのであった。
 
こうしてその跡地を整地して人力で開墾したが、いくら精いっぱい働いても1日の開墾面積はわずか2畝くらいのものであったという。
 
当時、翁をはじめとして、使用人や開拓入地者等すべてが祖衣祖食に甘んじ、食物も裸麦、粟、黍を主食とした。玉葱の挽き割りや丸麦、馬鈴薯に米を2~3分混入した飯は上等食で、米は盆と正月の2回に限られていた。
 
そして数年辛抱して貯金ができたとき、ようやく長年憧れの的であった耕馬を買い求め、皆は大喜びでわが家の馬の背や脚を撫で、鼻面に頬ずりをするのであった。こうして農耕馬がだんだん導入されるとことによって、北海道式農業が確立したのである。
 
「北海道式農業の確立」は「オホーツクの幻夢」でテーマにしている、本サイトがもっとも注目するところです。その始まりをデンマーク式有畜循環式農業として宇都宮仙太郎と黒澤酉蔵に求めましたが、その前段として沼田喜三郎の農業を考えなければならないのかもしれません。
 

北海道の三大あんどん行列に数えられる「沼田町夜高あんどん祭り」。沼田喜三郎の故郷、富山県小矢部市の松本市長と有志の方々により、沼田町の開基80年(昭和49年)を喜縁として伝承された(出典②)

 

■農産物や日用品の売買で苦労

こうして苦心の末開墾した土地からの農産物も、数里の道を滝川まで行かなければ金に換えることができなかった。
 
その滝川までの道が大変なもので、大木を削って目印とし往来したが、野草が身丈を没するほど生い茂っているので、道を誤り親子熊に出会って危害を受けたり、狼に襲撃されて大切な農作物を川に流したりした。
 
低湿地帯では歩く毎に泥濘が甚だしくなり、数十人が一列になって農作物を背負ったり、駄馬に積んで進んで行くのであったが、こうした泥濘地帯に差しかかると、膝の上まで泥に埋まり、荷を積んだ馬は腹とすれすれまでその巨躯を没して、ついに動けなくなることもまれではなかった。
 
その後こうした湿地帯には丸太や割木を横に引き並べ、縦に並べたところでは時々一本橋のような箇所が現出し、これをり歩くのはまことに危険なものであった。
 
しかしその後には雨竜川を舟で上下することとなり、滝川からは商人が日用品を積んでで上ってをきてこれを売り、また納会では川岸まで農作物を持ち出して商人がそれを買い取っていくというようになった。
 
しかしこのように便利になったものの商人は、移住者に対して日用品や雑貨類を高く売りつけ、移住者の収穫物は非常に安く買い取ると言うようになったので、翁はそれを改善するために、開墾会社でこれらの移住者の作物を適正価格で買い取り、それを小樽の市場に売り出して成果を上げている。
 
なおそのころの小作料は、麦、大豆、小豆なら反当3斗、鍬下年限は3年で、小屋掛料は会社から15円支給された。また当時の労働賃金は男40銭、女30銭が普通であった。
 
かくて成墾地は道庁から会社が付与を受け、開墾株式会社は成立10年目の明治37(1904)年に解散した。
 
しかし、解散によって50円株は2円50銭となり、その割合で株主はそれぞれ自腹を切ったのであるが、翁自身は総株数の3分の1の責任を負った。そして会社の解散とともにその所有土地5町歩につき300円から500円で分譲し、翁は400町歩を引き受けたのである。
 
当サイトではまだ出していませんが、私は北海道というものを創りあげるのに大正後期から昭和初期にかけて盛んになった産業組合運動が大きな貢献をした考えています。まさに沼田喜三郎が興した開墾会社はその産業組合運動の先駆となるものです。
 

■水稲の試作に成功

本町は現在空知管内でも有数の穀倉地帯である、翁が本町開拓に乗り出したころは、一粒の米も生産されていなかった。
 
北海道の米のはじまりは古く、特に石狩以北では明治6年、河内人中山久蔵氏が、松島で20水田1反歩の試作に成功したと記録されがある。だが明治20(1887)年代になっても、北海道中部以北の米作は、なお危険があるとして時の政府は試作をも禁じていた。これは開拓使顧問として招聘したケプロンの説に従ったものだといわれている。
 
さて翁は、この地方の地味・気候・水利を早くも明察して米作の可能性見通し、札幌郡西野から40日早生種の籾種を持ち帰り、現在の北竜第二(口美葉牛)に1町歩(一説には4反歩)の試作を行なっている。
 
しかしこの年はほとんど収穫はなく失敗に終わったが、翌年には幸い相当の収量をあげることができ、これが契機となって奔川から導水をして60町歩の水田を作り、またホロニタチベツ川からの導水によって300町歩を造田して好成績をあげた結果、その後にわかに水田経営の有利性が認識され、大正3(1914)年には約1000町歩を区域とする北竜土功組合が設立されたのである。
 
ここでは沼田喜三朗が稲作を試みた時期が記されていません。『沼田町史』(1970)の380pによれば「本町においては開拓人地の年、すなわち明治27(1894)年に早くも水稲の作付が付なわれた」とあります。中山久蔵よりも20年遅れですが、「その当時この地方ではまだ水田の耕作はほとんど行なわれておらず、口美雌牛の米が雨竜郡における最初のものではないかといわれている」(同)とありますから、沼田喜三郎は日本を代表する穀倉地帯、北空知の稲作の開祖でもあったようです。
 

北海道を代表する米どころとして沼田は平成30年の新嘗祭の献上米に選ばれた。写真は9月19日行われた「抜穂祭」(出典③)

 

■公共施設の寄付と各種事業の経営

明治39(1906)年、留萌線の敷設工事が開始され、停車場の位置が現在地に決定されるとともに、翁の構想によって市街区割りがなされ、にわかに沼田市街地に建築ブームが巻き起こされた。
 
この時も翁は、公共事業に対しても非常な情熱を注ぎ、たちまち沼田駅敷地および線路士採場として5000坪、市街地道路用地として6町3反余、殖民道路として5400坪、その他神社寺院・学校用地等はことく翁の所有地から寄付されたものであり、また学校の校舎および住宅の建設についても多大の寄付を行なったのである。
 
さて話はさかのぼるが、翁は開墾会社の事業に没頭しながらも、亜麻栽培の有利なことを勧め、明治30(1897)年ころ雨竜製線所を沼田の奔(現在の高穗1)に設けて、亜麻の製線加工を試みたことがあり、また前述の夕張郡長沼では約1000町歩の土地貸下げを受け、共同開墾組合(沼田農場)を組織して、私費で道路を開削した。
 
タバコ耕作をすすめて、明治31(1898)年の水害被災者のため大きな力となった。当時そのタバコ場には32名の農家の娘を使い、小樽から米た職人が機械刃で刻み、袋詰めにしたタバコを市場に出荷した。
 
しかしこの沼田農場も明治36(1903)年に解散し、4分の3を岩手県人10名に売却、残り4分の1を翁が経営していたが、大正5(1916)年ころにはいずれも個人に売却している。
 
開墾委託株式会社がその使命を終わって解散した明治37(1904)年には沼田市街(当時まだ市街ではなかった)に蒸気機関による製材工場を設立、命じ39年には同じ動力による精米・製粉工場を経営、さらに同44年には天塩国美深まで進出して、水力による製材工場を、大正2(1913)年には北見の中頓別でも水力製材工場を維営した。
 
また明沽34年ころ沼田の山林高台に、かなりの面積にわたる地籍の貸下げを受け、造林・造材のかたわら、小作人50戸を移住させ開墾と植樹を行なったこともある。
 
こうして翁は本町はもちろん、北海道各地の実業界にその才能を遺憾なく発揮し、その地域開発に貢献された功績は枚挙にいとまないほどである。
 
北海道開拓では、入地し原野を開墾した苦労が開拓として注目されますが、開拓指導者と言われる人々は入植の試練を乗り越えた後に、原野に築かれた新村のまちづくりに尽力するわけです。自らの財産を費やしてまちづくりに貢献した開拓指導者は沼田喜三郎だけでありませんが、費やした費用と労力は、北海道開拓史の中でも突出したものがありました。
 

■学問より勝る天賦の才能

翁は一定の学校を卒業せず、したがって学問を系統的に勉強したことはない。しかしその天賦の頭脳はきわめて鋭利鋭敏であり、数理には最も長けており、珠算の達者で、発明企業心に富み、先見の明があり、観察力が強く、そして第六感的な勘の働きは異常なものがあった。
 
その二、三の例をあげてみると、日本の有名なトンネルの長さはことごとく暗記していて、しかもそれは正確無比であった。その測定方法は自分の呼吸で計ったもので、まことに奇抜なアイデアである。
 
また沼田の水田は、札幌地方に比較して冬は5度寒冷だが、冬は5度暑いから稲作は必ず成功すると判断している。そして雨竜川の落差から見て沼田への導水は可能であると断定して造田計画を推進した。さらに美深、中頓別では、川の材積と全村の水源から計算して水力タービンの製材工場を計画したのである。
 
これらは単なる学問ではなく、直感力の鋭敏さと、経験による知織から得た視野の広さ、あるいは着眼点の非凡さによるもので、全社設立の際の目論見書の正確なことと、説明と説得の巧みなことは天下一品と称され、株主は安心して株を引き受けたのであった。
 
このように翁の識見の偉大さもさることながら、その誠実にして熱意のこもった説得と、ひたむきな目的への強い実行力が多くの協力者を魅了し、翁の事業へ決然として参加させ、そして翁の手腕に信頼し、寸毫の疑念も抱かせぬ、その人徳によるものであった。
 
明治26(1893)年、華族組合農場が解散した際、東本願寺の大谷伯爵を説得して大地積の貸下げに成功し、開墾委托株式会社の設立やその他多くの事業を経営したことは、これを立証する何よりの証拠であろう。
 
文中の大谷伯とは伯爵大谷光瑩(おおたに こうえい)東本願寺22代法主)です。参照
「【北海道開拓秘録】雨竜沼原野開発由来 東 武」。このことについて『沼田町史』(82p)には、
 

沼田町はこうして開拓の第一歩を踏み出した。しかしこの広大な未開地一千余万坪は、そう簡単にだれ貸し下げられたものではなかった。それには沼田氏の識見と熱意と説得力と、そして必ず相手の心に食い入って感勤を与えずにはおかない雄弁ならぬ雄弁の信念に固まった天与の人柄が、大いにあずかって力となったものである。
 
それまでにも沼川氏は、中央の政界・財界の知識人ともしばしば面接し、各種の要請事項を実現させているが、東本願寺の大谷伯を脱ぐまでにはすでに名古屋の菅野氏を説伏しているのである。その菅野氏は東本願寺の筆頭総代といわれた人であり、この菅野氏がまず沼田氏に心服していたのである。菅野氏は他の問題についてもよろこんで沼田氏を中央の一流名士に紹介の万をとっていた有徳の人であった。このようにその菅野氏の推薦があったことも一原因だが、要するに沼田氏の誠実な人柄を太田伯は全面的に信頼し、安心し伯の名義で一千万坪を超える広大な未開地の貸下げ願出を許諾したのである。

 
とあります。沼田喜三郎が沼田を開拓するにあたって、大谷光瑩の名義で貸下げを受けたことがわかります。また同書82pには華族組合農場について
 

組合の解散しかしながら、大きな抱負のもとに始められたこの農場も、事業を始めた明治二十三年盟主の三条公が他界したため、公の理想は一頓挫し、ついに明治二十六年三月十八日組合は解散、成墾地を除いたほかの土地はそっくり北海道庁に返還されてしまった。
 
こうして開拓の進行した地域は出願願いに応じて出資者に配分され、個個に独立した農場としたのである。また管理人の町村氏には農場の一部と農機具が交付され、組合の解散後は雨屯に蜂須賀(妹背牛の一部も含む)、戸田、町村の各農場が生まれ、また妹背牛から深川にかけて菊亭農場が生まれた。
 
大谷伯は解散の時に土地の配分を受けなかったが、その直後沼田喜三郎氏の奔走により、北竜・沼田地区に伯の名義で土地貸下げを受けた。

 
とあります。北空知の開拓に多大な貢献をなした華族組合農場は、蜂須賀茂詔、町村金弥(町村金五北海道知事の父)、菊亭修季から東武、そして沼田喜三郎に受け継がれたのでした。
 

沼田開拓の数少ない遺構「本願寺駅逓」
明治27年に建てられ、明治33年に駅逓所として官許された(出典④)

 

■粗食に甘んじた日常生活

翁の公共心の篤いことはすでに述べたが、さらに翁が多くの人々に尊敬された美点は数限りなくある。そしてその素因となったものは、常に誠心誠意をもって物事に当たるということで、また私利私欲の念が薄く、子孫のために財産を遺そうなどという考えは全くなかった。要するに自らを利するための事業ではなく、あくまでもその地域の開発と、社会公益に尽くさなければならないとの信条に雌づくものであった。
 
その日常生活においても、決して身なりや容姿を虚飾せず、文字どおりの質朴簡素、かりそめにも暖衣飽食を行なわず、三度の食事の際にも膳部に残る汁液はことごとく湯に和して飲み、いささかといえども天物を粗末にしなかった。そして常に腹八分目主義で通したので、食事直後に来客があっても、改めて付合いのため常人の一人並みの食事をすることもまれではなかった。
 
これはただ食事に限らず、体力においても常に余裕を持っており、必要に際してその全力を傾倒するという翁の処世哲学のなせるところで、登別における水車工事の際にもよくこのことが現われている。
 
こうして平素は健康のためにば余裕をもって決して無理をしなかったため、92歳という長寿を全うすることができたのであった。
 
大正時代の90歳は、現代の感覚では100歳を遙かに超える長寿ではないでしょうか。その経歴から若い時代には相当無理をしたと思われますし、当時の北海道の衛生事情を考えると驚異的な長寿です。しかも後段で紹介しますが、88歳で脳卒中で倒れるまで現役で働いていたそうです。この健康な肉体があったからこそ、50歳からの沼田開拓を可能にしたのでしょう。
 

■剛直の反面努力家であり、奇言も先見的警告

翁はまた一面きわめて剛直なところがあり、常人と異なった習慣を持っていた。たとえば汗に湿ったシャツ・肌着は完全に乾かなければ着用しなかった。
 
お客の前ではいつも容儀を正しくして正座した。寒い時は手足を温めるが、それが常温に達したならば、直ちに火上からこれを退け、いつまでも火上に手をかざしているようなむだはしなかった。また草畦をはかず革靴をはき、絹布を用いず絹衣を着ていた。
 
また他人との論議には絶対に勝ち抜くために、寝食を忘れてそのことに対する検討を繰り返し行うというほどの努力家でもあった。
 
さらに新開まもない沼田市街に集会用の沼田ホテルを建設したり、農民の娯楽施設として常設館を設置するなど、思ったことは少しも躊躇することなく、どんどん実行に移していったのである。
 
翁はまた時々奇言と思われるようなことを、よく話した。たとえば酒1升1円になる時が来る。その時は酒を飲む人がふえて落伍する者が多くなる。また将来畳に税金が課せられる時が来るから、今から畳を廃するよう務めるべきである等であった。
 
そのほかにも翁は農民に対して時々経済問題や農民の心得などについて話をする中でも、こうした奇言に近いことを述べたといわれるが、それは決して奇言ではなく、先見的警告であり、そしてまた、それらのことは皆その後実現したのであった。
 
沼田喜三郎がさらに尊敬されるのは、大資本による北海道開拓では農場主は不在地主となって都会にあることが多かったのに、喜三郎は開拓の進展を見守りながら自ら開いた沼田で生涯を閉じたことでしょう。沼田の次世代を担う人々は老境に入った喜三郎の謦咳に接し、まちづくりの思いを高めたことでしょう。
 

■翁の業績、ついに沼田町の名前を遺す

翁の功績はまことに偉大なものがあり、大正9(1920)年に北海道米百万石祝賀会で表彰されたが、これ以外にも枚挙に暇ないほど各方面から表彰され、また感謝状が贈られている。
 
しかし名誉欲のない翁はいたって淡々としており、これらに対しては全く関心を持たなかった。その実をとり虚をすてる翁の人格の然らしむるところであろう。
 
その幾多の情熱を傾け尽くして実行した事業や土地も、やがては他人の手に委ね去らねばならなかったのであるが、それも翁の長い、しかも深い人生経験から見るとその一切が空として浮き、淡々とした気持ちで、それを現実の姿として観じられたことであろう。
 
そうして翁の最も愛し、終生の事業として精魂を傾けた第二の郷里「沼田」は、だれも自発的になんらの運動も行なわなかったが、留萌線建設の際の駅名も当時の鉄道当局が村の実情に鑑みて「沼田」と命名された。
 
また早くから翁の功績を熟知していた北海道庁では、上雨竜村を大正11(1922)年4月1日、翁の姓をとり「沼田村」と命名し、全北海道民に永久に忘れ得ぬ偉人として、その胸に深く刻み込まれることとなったのである。
 
かくて翁は大正12(1923)年12月、多くの人々の尊敬と惜別の情のうちに、92歳の長寿を全うし、その多彩に満ちた人生の幕を閉じたのであった。
 
翁は死ぬまで働き通したといってよい。それは88歳のとき登別で水車建造督励中、河水に長く浸っていたため、脳溢血を起こし、それが誘因となって健康が急に衰えはじめたものであった。
 
また昭和29(1954)年、富川市における、全国大博覧会の北海道館入口には、沼田喜三朗翁の大肖像と略歴が掲げられ、道県出身の北海道開拓の大先覚者として、その偉大な功績を顕彰されたのであった。
 
われわれはこうした翁の功績と、数々の事業を経営して巨利を博しながらも、その終生を清貧に甘んじて、簡素な生活を送った偉人に対し、感謝と尊敬の意を表すべきであり、また北海道はこうした先覚者の積極的な熱意と実行力によって開拓されたものであることを銘記しなければならないであろう。
 
このような沼田喜三郎であるから、村に名前が必要になったとき、衆目の一致するところとして「沼田」が村名に選ばれたのです。
 
北海道開拓の100年は都府県の1000年に匹敵する──。府県の歴史には、武田信玄や伊達政宗があるのでしょう。しかし、北海道の歴史には沼田喜三郎がいます。
 
ただ『沼田町史』「沼田喜三郎」伝の最後の言葉は、今の私たちにとって辛いものがあります。どうして北海道は沼田喜三郎を郷里の偉人として誇り高く語ることを止めてしまったのでしょうか? 参照
2018年 北海道150年事業 記念式典編①
 
 

2015年、沼田町の開拓120年を記念し、喜三郎の故郷小矢部市に建てられた顕彰碑の除幕式の模様を告げる小矢部市広報。北海道開拓の偉人の顕彰はむしろ本州で盛んになっている(出典⑤)


 
 

 


【引用出典】
『沼田町史』1970・189p~193p
【写真引用出典】
①沼田町教育委員会『希望に満ちた豊かな学びのブログ』https://blog.canpan.info/numakyoui/archive/342
②沼田町『北海道沼田町の取材記事』2018/09/19 

http://numatakouhou.blog.fc2.com/blog-entry-1128.html

③空知総合振興局『そらち道草写真館』

http://www.sorachi.pref.hokkaido.lg.jp/ts/tss/gazouhassin/gazouhassin.htm

④沼田町公式サイト『北海道沼田町』>部所一覧>教育委員会事務局>
道指定文化財「本願寺駅逓」 https://www.town.numata.hokkaido.jp/section/kyouiku/ujj7s30000001gku.html
⑤『広報おやべ 2015第626号』2105/7/9・小矢部市

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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