北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

関矢孫左衛門と北越植民社(6)

 

関矢孫左衛門

 

関矢孫左衛門、北海道開拓に立つ

明訓校の校長に就任した大橋一蔵でしたが、北海道開拓への夢を絶ちがたく、跡を関矢孫左衛門に託して北越植民社を立ち上げ、野幌開拓に献身します。そして不慮の死。新潟の重鎮として多くの役職を受け持っていた孫左衛門ですが、すべての職を投げ打って北海道開拓に従事することを決断しました。
 

■孫左衛門、野幌を視察する

関矢孫左衛門に見いだされた大橋一蔵は、明訓校の校長に就任しますが、萩の乱に連座して獄に繋がれたときも、囚徒になろうとも北海道開拓に殉じたいとして、樺戸監獄に移されることを望んだ大橋一蔵です。校長の職に甘んずることなく、北海道開拓の夢を実現すべく、明治17(1884)年、笠原文平、親戚の大橋順一郎とともに北海道に渡って開拓計画を練りました。この北海道視察旅行で、確信を得た大橋は直ちに有志に北海道の開拓を説き、出資者を募り、翌19年に北越殖民社を設立したことはすでにご案内した通りです。
 
明治19(1886)年1月、大橋の志に賛同した13人が出資者・発起人となって「北越殖民社」を創立しますが、この時、関矢孫左衛門もその1人になり、51万円を出資しています。北越植民社が立ち上がると、大橋一蔵は北海道開拓に全力を傾けるため、明訓校の校長を辞任しました。跡を継いで2代目校長となったのは孫左衛門その人でした。

48歳の関矢孫左衛門①

 

大橋が上越で同志を募る活動をしている間、一蔵の弟の大河原文蔵と親戚の大橋順一郎らが北海道に渡り、江別太(江別)に拠点を設けて、移民事業保護の願書提出などの準備を進めました。
 
続いて7月10日、三島億二郎、笠原文平ら北越植民社の発起人たちが実際に北海道の状況を見ようと出発しました。孫左衛門もこれに加し、一行とやや遅れて7月18日小樽港に入りました。
 

■孫左衛門、開拓に希望を見いだす

連載の2で紹介したように、道の許認可が届くのを待たず、北越植民社はこの年の4月から小屋掛けをして開墾を始めており、関矢孫左衛門が渡った頃には後に「越後村」と呼ばれる入植地ができていました。
 
この開墾地の様子を見た関矢孫左衛門の感想が日記である「北征雑録」が『江別市史 上巻』に引用されています。
 
一、開墾地は森林中にして南方南方谷内ゆえに音潤なり、排水渠穿てば上地ならん。地は石狩川の沙泥をもって成立つるものなれば、赤白色にして耕作には蒼沃なり。
一、すでに畑となれるもの反7.8反。馬鈴薯麦菜大根等を植え、本年6月以来の創始に係る、その大勉強見たり。根を去るを大業となす。打起すは容易なり、1人凡25坪5位はなせり。
一、移住者は純粋の農者にして、夫婦とも開墾に従事せり。実に数百里波涛を越へ、その森林無人の境に破屋をもって将来の目的を立てんとなすは人情可憐事にてし、何れの日にか鶏犬相聞の楽となさん事、大神に祈るのみ。[1]
 

 

「越後村」の開墾②
これは五十嵐齢七氏作『画集・野幌開拓のころ』の一枚ですが、
五十嵐齢七氏は大正2年に関矢孫左衛門翁の末子として誕生しました。
晩年になって開拓時代を思い起こして描いたものです。(下の絵も同じ)

 

短い間ではありましたが、自分自身で確かめた野幌の大地と、大原生林に挑む植民社の入植者の奮闘に、大いなる可能性を見いだしたのでした。
 
『情熱の人 関矢孫左衛門』で著者磯部定治著は、北越植民社のもう1人のリーダー三島億三郎の日記を元にこの場面をこう書いています。
 
その場所の貸下げを願って、山野桑をもとに養蚕をやって見てはどうかと言った。孫左衛門ももとより北海道移民には賛成のことなので、力を貸すと述べ「養蚕もわかるので機会があればやろう」と言い、自分も「郡長を辞職して移住する気が、なくもないのだ」と言っている。これについて億二郎は「関矢氏の移住は大いに望むところだ。こちらからそう言ったわけではなく、関矢氏の方から移住を言い出したのだ。自分も大いに希望すると述べた」と記している。[2]
 

五十嵐齢七氏による開墾作業。立木の伐採よりも地面にはびこる熊笹の処理が大変だった③

 
自分が北海道に渡っても良い──。野幌の開拓地を見た孫左衛門はこう三島に述べたと言います。しかし、この時、孫左衛門は「郡長勤役中故帰郷ヲ急グ為メ」に、滞在2~3日で新潟に引き上げました。
 

■孫左衛門、北越植民社を支援する

この北海道視察の後、新潟に戻った三島億三郎は、あらためて小千谷にいた関矢を訪ねました。『情熱の人 関矢孫左衛門』はそのときの様子をこう書いています。
 
明治19(1886)年9月29日、三島億二郎は笠原文平と小千谷へ行った。当時北魚沼郡長として、小千谷の郡役所にいた関矢孫左衛門を訪ねて行ったのである。北海道の件について「関矢氏身上ノ事ニ期望スルアルヲ以テ」であった。「此儀ハ兼テ札幌ニテ同氏2説話セシモ、帰来更ニ時事ニ感スル所アリテ前意ヲ丁寧ニスルナリ」と三島日記にあり、孫左衛門の北海道移住の意志を再確認にきたのではないかと思われる。[3]
 
この頃、孫左衛門は国立六十九銀行の頭取でもありましたから、三島としては、孫左衛門に事業資金など、北越植民社植民社のバックアップもお願いしたのでしょう。3日後の10月2日、孫左衛門は三島と共に北越植民社の本社が置かれていた三島の家に赴き、平田多七、笠原文平、岸宇吉らと北海道の開拓の夢を語り合いました。
 
この会談の成果を受け三島は、明治20(1887)年6月、北海道に渡り、岩村通俊北海道長官に面会を求めました。北越植民社の事業が孫左衛門の協賛、すわち国立六十九銀行の支援を受けたものであることを長官である岩村長官に伝えたのでしょう。資金の目途が立った大橋は、「伊達屋敷」のあった現在の江別市野幌若葉町など、矢継ぎ早に事業を拡大していったことは
前述したとおりです。
 

■大橋一蔵の不慮の死

しかし、明治21(1888)年12月、大橋は突然帰らぬ人となりました。この事故によって、関矢孫左衛門が北越植民社の長となるわけですが、『情熱の人 関矢孫左衛門』からこの事故の場面を紹介しましょう。
 
明治21(1888)年12月30日、大橋一蔵は所用があって新潟港経由で郷里に帰ってきた。そして22年1月8日には上京の途についた。2月11日に大日本帝国憲法発布の大典が行われるので、その拝観のためであった。
 

 

五十嵐齢七氏による「大橋一蔵の不慮の事故」④

 

さて大典の当日、大橋一蔵が中頸城郡の遠山1000里郡長とともに、元数寄屋町の旅館を出て和田倉門外にきた時、あたりは拝観者で大変な混雑となっていた。桜田橋の上で花車にひかれそうになった老女と少女に遭遇、その時大橋一蔵はとっさに少女を救い、さらに老女を救おうとした。
 
しかしあっという瞬間、かえって自分が花車の車輪にひかれてしまつたのである。重傷であったという。ただちに赤10字病院に運び込まれたが、出血多量で重体となり、2月20日ついに不帰の客となった。享年42歳であった。
 
これは北越殖民社にとって一大奇禍であった。事業はスタ―卜したばかり、しかも予期に反して大きな損失を出してしまい、その立て直しもまだ軌道に乗らない時である。この先どうなるか。いや、どうして行くか。それを誰がやるのか。先の見通せない大問題であった。そしてこの難関を背負って立ったのが、関矢孫左衛門なのである。
 
前途は暗たんとし、会社がそのまま解散に追い込まれる恐れもないとはいえなかった。しかし夢と希望に支えられて入植した人たちを放り出すわけにはいかない。事情を知り刖途を懸念する人たちは、1日も早く現地で指揮をとる人をと気をもんだ。そして関係者のみんなが「彼ならやってくれるだろう」と推薦したのが、関矢孫左衛門であった。[4]
 

■郡長、頭取、校長の職を投げ打って

当時孫左衛門は、北・南魚沼郡長でした。今は市町村長の上は知事ですから、失われた役職ですが、新潟県南東部の最高責任者です。加えて孫左衛門は創立間もない国立六十九銀行の頭取として銀行業の基盤を固める一方、明訓校の校長として子弟教育にも当たっていました。
 
すなわち、この頃の孫左衛門は、新潟という地域を封建制の江戸時代から近代的な明治時代に受け渡していく重要な役割を担っていた人物ということができます。その責任の重さを考えると、おいそれと北海道に行くなどと口にできるものではありません。
 
しかし、孫左衛門は迷うことなく、すべての役職を辞して、大橋一蔵の志を継ぐこと、北海道開拓に従事することを決断するのです。『野幌部落史』はこう述べています。
 
ここおいて三島、岸、笠原等は関矢孫左衛門を直接当事者として推薦した。先に引用せる『北征雑録』により推察される如く如く関矢は最初から事案に加していた。長岡六十九銀行創設に三島、岸と共に協力して長岡人との交友關係は古いものであり、また明訓校創立に当たり大橋を知り、志を同じくして与していたが、当時南、北魚沼2郡郡長の要職にあったため表面には立たなかった。すでに老境に達した三島億二郞はこの任に耐えず。関矢の出馬を画すことによって殖民社の苦境を脱せんと、その懇願拒みがたく、ついに郡長を辞し、渡道を決したのである。[5]
 
明治21(1888)年4月、孫左衛門は現地の状況を把握するために北海道に渡ります。6月に1旦新潟に戻りますが、これは自分の後半生は北海道に捧げることを、幕末維新から苦難を共にした同士に告げるものでした。18日に小千谷で送別会が開かれました。
 
こうして関矢孫左衛門の野幌開拓が始まるのです。
 

 


【引用参照出典】
[1]『江別市史』1970・305p
[2]磯部定治『情熱の人 関矢孫左衛門』2007・新潟日報事業社・74p
[3]同上77-78p
[4]同上79-80p
[5]『野幌部落史』1947・野幌部落会・64p
①『北海道開拓 原生林保存の功労者・関矢孫左衛門』柏崎市立柏崎ふるさと人物館・2003
②③④五十嵐齢七『画集・野幌開拓のころ』(『北海道開拓 原生林保存の功労者・関矢孫左衛門』柏崎市立柏崎ふるさと人物館・2003)

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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