[根室] 北方領土・千島の開拓 (1)
海賊跋扈する無法の海
北方領土をめぐる交渉をロシアが打ち切ったことで、にわかに注目を集める北方領土。日本固有の領土であることは誰しも知ることですが、それ以上となるとテレビで流れる年老いた元島民の姿を時折見るだけではないでしょうか。北方領土問題を紹介する書籍やサイトを見ても「樺太千島交換条約」以降の歴史はほとんど取り上げられません。そこで『根室市史』と昭和8年発行の『根室千島両国郷土史』によって北方領土の開拓史を学びます。
■『根室千島両国郷土史』について
今回参考にした『根室千島両国郷土史』は根室日報社の経営に当たった根室本成寺の本条文男(玉藻)氏が編纂委員会を組織して資料収集発行にあたったもので、昭和8年に発行されました。序文で徳富蘇峰が「地方ニ於ケル日本ノ文化ヲ徴スベキ唯一ノ史料タラズンバアラズ」と書いています。戦前にこの地方の歴史を包括的に扱った唯一の史書だったようです。
本筋とは離れますが、同書のまえがきは、「北海道開拓倶楽部」を運営する当方にとってはとても心に浸みるものでした。引用しますが、先を知りたい方は、これを飛ばして次節からお読みださい。
抑々、歴史は国家の生命であり精華である。しかして国家の特色は地方の特色に基礎源泉を有することはもちろんである。故に愛郷心なき者は愛国心無き前兆とは千古の金言である。したがって地方色を尊重せざる者は自国の特色を思わざる野蛮国民と言わざるべからず。祖国日本の伝統と使命と精華を忘れるものは、帝国の真髄を忘却するものである。
しからば愛郷心は愛国心の発露顕現にして郷土史はその源泉根幹なりと言うべし。このゆえに郷土史の保存調整は国民教育の成果真髄を培う資料と言わざるべからず。
我が根室、千島両国は実に神州天与の大宝庫である。その帝国の無尽無限の大宝庫を開拓したる先人古老の地涙く粒々の辛苦の汗を流した痕跡を方々に訪ね、資料、史料、史蹟、公伝、伝説、天然並びに人造記念物、神社、仏閣、産業沿革の今昔変遷の史料を全管内各地に調査研究するはもちろん、遠く江湖に散逸潜在する細大にわたる資料を蒐集して郷土史を編纂する事は地方文化の発達を図り、愛郷心の涵養となり、郷土に対する研究心の喚起となり、知識欲の向上となり、趣味の学術化となり、思想の純粋化となり、さらには帝国精神の真髄成果をいっそう光輝燦爛たらしめる所以であると深く信じ、郷土史編纂会を組織し、世界の最東端に位置する我が根室・千島両国の産業総覧たる郷土史を編纂し、永久不滅の大使命を後世に伝えんとして本史を刊行したる所以である。
国を愛するということは、郷土を愛すること、郷土の歴史を知ることから始まるんです。そうしたことを忘れて中韓の「反日」と戦うことだけが「愛国」と思っている野蛮国民のなんと多いことか! 昔の人にまた教わりました。
さて、前置きが長くなりました、北方領土の歴史の始まりです。
■ロシア船に襲われるアイヌ部落

明治8年の「千島・樺太交換条約」によって日本帰属した北千島ですが、幕末から明治にかけてどのような様子だったか、昭和8年の『根室千島両国郷土史』(本条文男編集主幹・根室町本成寺発行)から紹介しましょう。これは幕末頃に択捉島で起こった事件の言い伝えです。
ロシアの密航船は、毎年2月から3月ごろから本国を出発して、樺太沿岸からカムチャツカに直行し、根城をこれに置き、千島伝いに択捉、国後に密航してくる漁船は数十隻に達していた。5~6隻が一組になり、部署を定めて各方面に遠征した。 そして収穫不良の秋は必ずアイヌ部落を襲撃し、ロシア皇帝への貢物を出せと強要する。もし拒絶でもすると凶器を持って撲殺すると脅迫する。もちろん反抗すれば殺害するくらいのことは平気である。魚肉の乾物、怪獣被皮を巻き上げて本国へ帰るのは12月ごろである。
ある年、密航巨船が沿海孤島において砂金7俵を採取し、択捉島に寄港し、本国へ帰るまでの食料品を掠奪しようとアイヌを襲った。アイヌは衆寡敵せずと諦め、ロシア人の掠奪するまま傍観していると、数件の家から食料品・獣皮類をはじめ濁酒(どぶろく)5瓶まで掠奪して巨艦に引き揚げた。
命にも代えがたいと秘蔵していた濁酒を略奪され、アイヌの数十名が夜陰に乗じて逆襲を企てた。幸いその日は暴風襲来して出港できず、船員十数名は掠奪した濁酒の瓶を傾け、鯨飲飽くところを知らず泥酔して前後不覚である。
波浪を冒して窺い寄ったアイヌの襲撃隊は、この見て勇気百倍、苦も無く全員を縛り上げ、一挙に斬首せんとした。ロシア人、驚愕戦慄、ひたすら助命を請い、中には独涙する者もあった。 アイヌまた情あり、爾後の和順を誓わしめ、助命の代償として提供するところの黄金7俵を始め、武器、釣具その他めぼしき衣類、什器類を分捕ってロシア船を追放し、凱歌を上げた。
それから間もなく、4隻のロシア密漁船が威風堂々海を圧して現れた。うち1隻は襲撃膺懲して追放した船である。すんでところで斬首の災いに逢わんとし、膨大な砂金その他の器具を巻き上げられた腹いせに、僚船を説いて復讐奪還に来たことは言うまでもない。
征服の誇りと濁酒に爛酔した享楽のアイヌ部落には正しく晴天の霹靂であった。もとより一戦を交える勇気もなく、山奥深くに避けたが、逃げ遅れて惨殺された者もあった。
ロシア人は無人の部落を縦横に蹂躙し、放火、掠奪、暴力の限りを尽くしたが、逆襲の最大の目的たる砂金の俵はついに発見することができなかった。事実とすれば膨大な宝である。翌年も大挙来襲し、同部落を発掘捜索し、再三探索を試みたが結局得ることが無かったと伝えられている。
悲惨な話しです。北海道開拓はアイヌへの侵略だと批判する声を聞くことがありますが、明治政府が北海道開拓に乗り出さなければ、こうした運命が全道のアイヌの人々を襲ったことは想像に難くありません。

外国船による臘虎(らっこ)の密猟 ②
■明治天皇、片岡侍従を派遣する
時代は明治となり、「千島・樺太交換条約」によって日本領となった千島ですが、しばらくは状況に変化がなかったようです。『根室千島両国郷土史』はこう続けます。
明治年間に入って、諸外国船がますます千島に繰り出すことはあたかも現今の鱒釣り船が全国から遠征して釧路根室に両国海洋に群集するがごとく。ほとんどが密漁船で混乱戦状を展開された。
しかるに政府は軍艦を帰還せしめて密猟防止に努めたが、当時外国人に対しては領事裁判制があって領海内にても国法を適用することができず、結局我が威令は少しも行われず、血涙を飲んで密漁船の跳梁跋扈をいのままにせしめたそうである。明治6(1873)年から5カ年に渡って外国密漁船と我が開拓使の捕獲は競争状態を極めたが、到底頑健なる外国船には遠く及ばず数万頭を乱獲された記録されいる。
現在の印象から千島を含むオホーツク海域は、世界の果ての果て、寂寥とした場所と思いがちですが、幕末から明治時代は外国の海賊が跋扈する激しい争いの海だったのです。北海道の開拓史を学ぶとき、北海道の東半分はこうした海に囲まれていたことを頭に置いておきたいものです。
さて、ここからは『根室市史』から紹介します。
無政府状態であった千島について誰よりも心を痛めたのが明治天皇でした。北海道開拓に強い関心を寄せられていた陛下は、明治24(1891)年夏、侍徒の片岡利和を北海道に遣わされて開拓状況を視察させたおり、千島列島の様子も調べておくように命じました。
片岡侍徒は10月18日に北海道に入り道内各所を視察して11月択捉島に渡りました。ここを本拠として状況を調査します。計画では得撫島に渡って越年する見込みでしたが、時期すでにやむなく択捉島での越年となりました。片岡侍従は雪解けの4月になって紗那村に根拠地を移して周辺調査し、帝国水産の「千島丸」が人港したので便乗し、得撫島から東北の各島を巡回しました。侍従が帰航の途についたのは8月です。
それにしても侍従の片岡侍徒、豪胆な人です。この時代に日々天皇の側で煌びやかな日々を送っていた人が明治天皇の命令があれば、すぐに千島に渡って越冬し、調査して戻るとは。ただの宮廷官僚ではありません。
調べると片岡源馬で知られる土佐勤王党の志士で、元治元年に土佐藩を脱藩し、幕末の京都政局で諸藩の志士の間を奔走、戊辰戦争では北越戦争を指揮したというまさに明治の勤王の志士でした。明治維新の動乱をかいくぐった志士の豪胆さを教えられます。
■岡本監輔の「千島義会」
片岡侍従の調査により、想像以上に外国船が跋扈している千島列島の状況が明らかになると、これを憂いた岡本監輔が明治25(1892)年1月に「千島義会」設立に動きます。
岡本監輔については「明治天皇の北海道開拓(一)」で取り上げましたが、明治新政府に北方の状況をいち早く知らせ、北海道開拓の起点を作った人物です。岡本は次のような檄文をつくって、維新の回天を成し遂げた志士たちに呼びかけました。

岡本監輔③
天皇陛下曩に特旨をもって侍従を派遣したまへるのは何の故ぞ、国人もし奮進の勇気ありて、すでに千島を拓きたらんには、何ぞ斯のごとく大御心を煩はせたまふことあらんや。しかしして国人が奮進の勇気に乏しきは、けだし左上君子が奨励の足らざることなきを得んや。今にして千島を拓き北門を防がずんば、天下後世に対してためすべきの義務を欠くがごとき感なきこと能はざるなり。
生等はこれを他人に待たんよりは自ら奮ふに如からざるを知り、客歳奮て千島に渡航し、山河を跋渉して海陸の実況を間見し来りすこぶる見る所ありて、同志数十人と合し、千島義会というを設け、その第一着手として男女を募り、本年4月をもって千島に渡航し、雰霧を冒し沍寒を凌ぎ、一片勇往の精神を祖宗神明に謦い、死に至るまで拓地殖産に従事し、もって国体を保し、国防を全うし、国利を興さんと企てたり。
岡本監輔はこように訴えて、千島開拓のための結社「千島義会」を組織すべく、明治政府の顕官に協力を求めました。岡本は数十名の同志とともに千島に渡航し、無人島に上陸して、開拓の地を定めますが、資金が充分に集まらず、わずか1年で千島義会は解散となりました。
【引用・参照文献】
『根室市史』1983・根室市
本城文男編集主幹『根室千島両国郷土史』1933・根室千島両国郷土史編纂員会・本成寺発行
①北方領土問題対策協会素材集(地図)
②北海道立文書館「幕末~明治前期公文書挿画コレクション」
③関西大学>泊園書院