北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

明治天皇の北海道開拓 (五)

 

五me

 

明治14年 北海道行幸(中)

 

昭和13(1938)年の『開道70年史』と昭和5(1930)年に道庁が刊行した『明治天皇御巡幸記』で振り返る明治天皇の明治14年北海道巡幸。札幌編の後半です。初日と2日目の前半までは開拓の成果を確認することに重きを置きましたが、2日目の後半は開拓に貢献した人々の労を労うことに重点が置かれたようです。

 
 

■真駒内牧場

明治天皇による北海道行幸の3日目、9月1日は御在所から午前10時に真駒内牧場に向かわれました。この牧場は明治10(1877)年にエドウィン・ダンの献策により北海道開拓使より設けられたもので、北海道酪農、いや日本酪農の原点とも結うべき牧場です。ダンが北海道に導入しようとする北米式酪農を北海道に示すショーケースの役割を担いました。
 
町村金五知事の父である町村金弥が酪農を習ったのもこの牧場で、後に宇都宮仙太郎がここで酪農を覚え、北海道酪農のリーダーとなっていきます。3日目の一番に訪れたことに陛下のこの牧場に寄せる期待の高さが示されています。
 

九月一日、陛下には真駒内牧牛場に行幸、牧畜耕作の景況を天覧。

 

真駒内牧場の歴史を伝えるエドウィン・ダン記念館

 

■山鼻屯田

真駒内牧場からの帰路、明治天皇は山鼻小学校を拠点に山鼻屯田を視察され、永山武四郎大佐が案内ました。山鼻屯田は明治9(1876)年、琴似屯田に次ぐ2番目の兵村として設けられたもので、この時の様子を描いた絵画が「明治天皇八大巡幸」の一枚として明治神宮宝物館に所蔵されています。明治天皇自ら屯田兵の精勤をご覧になり、励ましを与えたことは、山鼻屯田ばかりでなく、全屯田兵を勇気づけました。なお下で言及されている「お声掛かりの柏」は現存していません。山鼻屯田資料館に一部が保存されています。
 

旭川市の北鎮記念館に展示された「明治天皇八大巡幸」

 

山鼻村では屯田兵の農事作業の実況を臠はせ給い、やがて山鼻学校に御著輦、屯田収穫の農作物および製造品等を天覧遊ばされた。この時、構外の一老樹に御目を止めさせ給い、樹名を御下問あらせられたので、柏の旨を奉答申上げたが、爾後この樹を「御声懸かりの柏」と称して保存し、今に至るまで亭々と聳え、当年の聖恩を記念し奉っているのである。

 

明治天皇行啓当時の面影を伝える山鼻屯田公園

 

 
■札幌農学校

お昼に行ったん御在所の豊平館に戻られた明治天皇は、午後2時に札幌農学校へと向かわれました。理化学の実験をご覧になった後、博物館の展示をご覧になりました。
 

北大植物園博物館
明治天皇がご覧になった博物場を基に翌明治15年に開館した

 
午後3時10分、休憩所に充てられた偕楽園内済華亭で、千島樺太交換条約によって江別の対雁に移住した樺太アイヌ移民の歌と踊りをご覧になります。陛下は喜び樺太アイヌ移民にお酒を振る舞いました。
 
いわゆる「樺太アイヌ強制連行事件」の当事者ですが、「連行事件」を紹介する書物でこのことが言及されることはほとんどありません。強制連行という虐待を受けた当事者を、恨みの的であるはずの明治天皇に会わせることに政府開拓使はまったくリスクを感じなかったのでしょうか。なお樺太アイヌ移民については連載中の山邊安之助「あいぬ物語」も併せてご参照ください。
 

同日午後は札幌農学校に行幸あり、次いで博物場より偕楽園内済華亭に臨御あらせられた。御便殿にて御休憩中、旧樺太土人の一群、舞曲を演じて天覧を忝うした。

 

明治天皇の御休憩所として建てられ、現在も当時の場所にある清華亭

 

御代巡

一方、有栖川宮を名代として、海が時化なければ訪れるはずだった小樽に遣われます。有栖川宮は量徳小学校や手宮の古代文字を視察されました。有栖川宮は帰札の途上、銭函で下車され、近隣の漁民に声をかけてました。宮は午後2時30分に札幌に戻られています。
 

また同日、有栖川宮殿下には勅を奉じて小樽を御代巡あらせられ、手宮洞窟彫刻の所謂古代文字を御覧遊ばされ、これより煤田開棌掛の工場、量徳学校を御巡覧あった。本校は行在所として陛下を迎へ奉らんとしたものである。
 
かくて御帰還の途。銭函に御下車を忝うし、付近の漁業、地理等に就き以聞した。

 
また北白川宮殿下には、陛下の代わりに琴似屯田をご視察になります。兵村の産物をご覧になったほか、山田軍曹の兵屋に立ち寄られました。
 

琴似神社境内に残る琴似屯田兵屋

 
このほか、「松方デフレ」で知られる松方正義内務卿を茨戸方面へ、堤正誼宮内大書記官を今の北海道神宮に勅使として向かわせます。この時、堤大書記官は神餞料3円、幣帛料として10円を納めたほか、終戦になったばかりの西南戦争に出征した屯田兵の戦死者32名の遺族に祭菜料160円を賜りました。
この他、多くの札幌の官民が酒餞料をいただきました。
 

また同日、北白川宮殿下には勅を奉じて、琴似兵村を御代覧あり、兵村の製産物等を御覧の上、兵屋、開墾地等を御巡覧、特に山田軍曹宅に御立寄あり、兵屋の内部を御覧あらせられた。
 
その他藤波侍従、松方内務卿をして札幌、茨戸間農村の状況を覗察せしめ給い、堤宮内大書記官を勅使として札幌神社に参向させ、幣帛を奉献せしめ給うた。

 

明治天皇から酒餞料を賜った人々のリスト

 

■開拓功労者に謁見

偕楽園から戻られた明治天皇は北海道開拓の功労者に集めて励まされました。この時、拝謁に栄に浴したのは、①伊達の開拓に努めた亘理伊達家の家老・田村顕允、②当別を開拓した仙台藩岩出山伊達家の家老で「石狩川」の主人公・吾妻謙、③北方稲作の開祖・中山久蔵、④札幌月寒開拓の開祖・中田儀右衛門です。陛下はこれらの人たちに賞状を贈りました。
 
伊達家の当主ではなく開拓実務を主導した家老、平民出身の中山久蔵を招いて慰労するところに幕藩時代を終わらせた明治天皇のお心が示されているように思います。この後、豊平館で4人から開拓の苦労を詳しくお聞きになったのでしょう。
 

また行在所にて開拓功労者に謁を賜い、新開地の衆庶ことごとく御聖徳を仰ぎ奉った。

 

 

 


【引用文献】
『開道七十年』1938・北海道庁・13~15p
①④函館市観光協会
②③⑤函館市立図書館デジタル資料館

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