
岩出山藩主伊達邦直の苦闘
本節では旧岩出山伊達藩当主の伊達邦直が「伊達邦夷」として登場します。ここで簡単に当時の旧岩出山藩主従の置かれた状況を説明しましょう。

伊達邦直(作中では邦夷)
戊辰戦争で宗藩である仙台藩は奥羽列藩同盟の盟主となり、支藩である岩出山藩も官軍と戦うこととなりました。

しかし宗藩から休戦の命令が出て、岩出山軍の秋田進行作戦は断念となりました。仙台藩と官軍との停戦交渉が始まったのですが、勝利していた戦場を渡すこととなり、岩出山藩は宗藩に対して強い不信感を抱くこととなります。

宮城県岩出山(大崎市)
9月、仙台藩は官軍に降伏し、戊辰戦争は終わりました。宗藩は28万石まで減らされたもののかろうじて所領の没収は免れましたが、支藩はすべての領地を取り上げられます。岩出山藩では藩主の伊達邦直までが藩士扱いで、陪臣である邦直の家臣はすべて「無禄」となり、帰農が命じられました。そして新たな領主になった南部藩の支配下に入ることになったのです。
プライドの高い岩出山主従がこれを受け容れることはできません。明治2(1869)年9月、伊達邦直は北海道開拓志願書を提出しました。この志願書を中央政府に届ける使者に主人公阿賀妻のモデルである吾妻謙が選ばれています。

吾妻謙(作中では阿賀妻謙)
しかし、吾妻は宗藩の官吏によって捕らえられてしまうのです。この頃、宗藩と岩出山藩の連絡は十分ではなく、岩出山藩の動きを怪しんだ宗藩が吾妻を捕らえて動きを探ろうとしたのでした。
結局、邦直の開拓志願書は捕縛を免れた小野・安倍の手によって東京の中央政府に届けられます。11月になって政府から入植地が指示されますが、先行していた旧亘理藩が海岸沿いの伊達市、旧角田藩が室蘭を与えられたのに岩出山主従には内陸の空知。
このことに驚いた岩出山主従は海沿いを変えてもらうように要請します。だからといって士族移住地の配置は対ロシアにらんだ戦略的なものですから、簡単には変えられません。
この少し前の明治2(1869)年10月、邦直は4人の家臣を北海道へ送って開拓使と直接交渉に当たらせました。4人は函館から北上し、札幌に向かいますが、当時はまだ本府建設の途上で、本府がどうなっているか分からないまま雪の季節になったこともあって本国に引き揚げました。
なかなか決まらない移住に岩出山では、帰農する派と渡道する派で対立が激化します。一旦北海道鮫渉(ばっしょう)専一──北海道開拓の初心を貫く邦直は明治3(1870)年3月、自らが北海道に渡ることで決意の固さを家中に示します。
4月5日、函館を出発した邦直は陸路北上し、20日に本府札幌について岩村判官と対面し、入植地の割当を要請しました。この時、判官から指示されたのが今の空知奈井江でした。
またしても望まない空知でしたが、判官から直接指定された現地を見ることもなく断ることはできません。その足で人跡未踏の石狩原野探査に出発します。石狩川を遡上して5月9日に目的地に到着しました。不運なことにこの時、大雨が襲い、石狩川沿岸のこの地は水浸しになります。この時、岩出山ではすでに736戸3700人が、田畑家財を売り払い、移住申し込みをしていました。邦直はこの地では到底家中を養えないと判断します。
5月16日に札幌に戻った邦直は岩村判官を捕まえようとしますが、判官は出張中につき函館府に出願するように言われます。どこから聞いたのは岩村は岩出山家中の入植者は50戸くらいと考えていたらしく、面倒になって逃げたのでしょうね。
壮大なたらい回しですが、邦直は文句一つ言うことなく素直に5月20日に小樽を出発して6月1日に函館に入りました。ここで邦直は開拓使の役人の家を一軒一見訪ね歩き、海岸地の拝領を懇願します。根負けしたのでしょう。海岸地を払い下げることはできないが、貸すことはできるという玉虫色の返答をもらい、邦直は所期の目的を達したとして6月10日、北海道を離れました。
一方、札幌には小野省八郎と佐藤又三郎が残り、拝領運動をねばり強く続けます。軟禁から解かれた吾妻は東京で運動を続けました。このようにして開拓使は、明治3(1870)年10月になって海岸沿いの厚田村聚富の「拝借」を許可するのです。
伊達邦直と第1回移住者180名は、チャーター船「猶龍丸」に乗って明治4(1871)年3月18日の夕方宮城の松島を出港。23日に室蘭に上陸し、4月6日に聚富に到達します。船便の荷物が届いたのは7月5日。3カ月余りの間、移住民は着の身着のままで過ごすこととなり、移住計画は最初から大打撃を受けました。
そして聚富の土地は明らかに農耕に不向きな土地でした。
「移住者たちは開墾に精励し邦直も旧臣の作業振りを督励したので、たちまち数町歩の畑地を墾成し、作物の播種、苗物の移植等を行なった。しかしこの地は伐木して土地耕起を行ったところ、その土壌は全くの砂礫(されき)であり、地表二、三寸(6~10センチ)ほど土のように見えた黒い層は、樹木の枝や落葉が積もって腐朽した有機物であった。このような土地は二、三年経過するうちに全くの痩(やせ)土と化してしまうことが衆目の認めるところであった。邦直はじめ監事役員は、このシップでは将来の見込みが立たないとし、代替地を願い出る方向へ意見がまとまっていった」(『当別町史』73p)
このままここにとどまれば飢餓になるという危機のなか、有望地との噂を聞いたトウベツ原野に吾妻(阿賀妻)らを探索に向かわせます。前章(第1章)はこのトウベツ探査の模様を描いています。
手応えをつかみ、邦直主従はトウベツ移転を決めたのですが、果たして開拓使はこの3度目の変更願を聞いてくれるでしょうか? その交渉役にまたしても吾妻が指名されました。
第2章は、吾妻が札幌へ入植地変更の交渉に向かう朝から始まります。戊辰戦争で降伏状を届けた仙台藩の使者二人は明治2年5月に処刑されていますから、岩出山主従の再三のわがままに官は激怒し、吾妻は捕らえられ、処罰もあると考えられていました。史実では明治4(1871)年4月24日の朝です。
第二章
(一)
草鞋の踵を踏みしめて、妻のわたす脇差を腰におとした。袴の腿立を取ると、用意はすっかり出来たのである。一件書類その他、さしあたり必要なものを小さな荷に振り分けて肩にかけ、「それでは――」と云った。伏目がちの妻は韮山笠(にらやまがさ)を差しだしていた。
夜明けの闇が冷たく漂い、ちょろちょろと燃えあがる焚火の焔もはかなげであった。彼は相手の顔を見ないようにして出された笠の緒をつかんだ。彼女もまた、つとめて彼を見まいとしているようであった。
夫の身体はその心労とともに、まことに、席の温まる暇もあたえられなかった。そして、一度家の閾を外にしたならば、何時なんどき相果てるかも知れないという――それが彼らの常識であり、心構えであらねばならぬのだ。そういう最悪の場合に立ちいたっても、従容として帰するがごとく身を持さねばならぬ。彼らにとって、一たんの離別は永久のそれにも通じないわけではない。そうでないと誰が保証出来るものか。
やるせない思いは、しげしげと顔も見得ない彼女の態度のうちに煮えくりかえっているのだ。男の腕が笠を引きよせて行く動作にずるずると引きよせられ、前のめりに倒れそうであった。気づいて危くその腕に取りすがった。
「どうした?」と阿賀妻は見下した。
「手甲の紐がとけて」
「あ、――」
彼女は掌の中に男の腕をはさんでひきよせていた。ほどけた真田紐を丁寧に巻きつけている女の容姿もやつれていた。ほつれ毛もないようなあの丸髷は空しくつぶされ、ぐるぐると櫛巻にした洗い髪が、襟にあてた手拭の上におくれ毛を散らばらせていた。
身だしなみをする余裕もなければ、そういう環境でもなかった。俸禄は召しあげられ、武士は捨てさせられていた。名目は土民であった。気風だけには何百年来の習慣がこびりついていた。だからまた、おちぶれ果てた妻の姿をこんなに近々と見た彼の胸には、こみあげるようなものがあった。それは自分をあわれむことであった。彼女は彼女で小者一人の供もなくなった夫の、丸腰に近い姿を哀んでいたのである。
「その――サッポロとやらは、幾日の路でございます?」
「この度は、おそくも二日とはかかるまいと思われる」
それ以上、深くは聞かなかった。先日踏査したトウベツの土地払い下げのため開拓使庁に出頭することは知っていた。その成るか成らぬかを心配していると、それさえ口に出して云えなかった。彼女は云った。
「ずいぶん気をつけて――」
うす暗い光のなかで、彼女は三ツ指をついていた。それを軽く受けて、またぎの土間を抜けるのであった。まだ夜であった。黒い海を右手に見わたした。打ちよせる波の間断ない響きは耳に馴れている。何か、げきとした静寂のなかに踏みこんだ気持であった。
彼は、彼らのつくった粗末な聚落の間を、急ぎ足に──しかし、抜き足で通って行った。夜明けの夢をかきみだしたくなかったのだ。そして、ほの白く浮きだした板囲いの家の前で佇んだ。障子窓に黄ばんだ灯が滲にじみ出ている。
「阿賀妻か――」と内部から先に声があった。
はッ、と突き膝になり彼は頭を低げて答えた。
「いかにも――謙でございます」
「待っていた」
障子がひきあけられた。めらめらとランプの焔が揺れた。明けがたの冷たい空気が流れこんだためであろう。
彼らの主君であった伊達邦夷は、さかやきの伸びた額をおさえ、いささか唇をまげたあの顔で、遠い海の彼方に視線を投げていた。思いが胸にあふれているときの様子であった。しきり海風が揺れて吹き通った。彼は眼を阿賀妻に移して一言云うのである。
「ご苦労――」
「最善の努力をいたして参ります」と、阿賀妻は目を俯せた。
「何分とも――」と顔をひき邦夷は、「これ!」と呼びかけた。
炉ばたに畏っていた従僕がはね起きた。「持って参れ」と彼は命じ、草履をつっかけて外に出て来た。すでに用意してあったものである。酒と干し烏賊とを朱塗の膳にのせて運んで来た。
立ちあがる拍子に阿賀妻は家の中をちらッと一瞥した。妻子を郷里に残した奔走の何年目になるだろう――単身この移民の先頭に立ってやって来た邦夷は、夜具代りにした二三枚のケットにもたれて、書見にふけっているように装いながら実は考えごとに耽っていたと思われるのである。
昨夜の今暁であった。踏査した新しい支配地の貸付を、開拓使の仮庁舎に出頭して懇請しなければならない。そういう相談が一決したのが昨夜の深更。またしても、阿賀妻謙を差し立てることになったのである。彼を措いては人は無かった。が、その彼にしても、果して成功し得るや否やに就いては胸をたたいてみせるほどの自信はなかった。
過日来、あの長官はああ云われたのであるから――という気休めを抱いていたが、聞けば、その人も更迭されて東京に帰ったそうである。後に来たのは、薩派でもその人ありと知られた黒田清隆であった。
官――といわれる新たな彼らの支配者は、実は薩摩の勢力で占められつつあるのではないか。一たび不利な立場におしやられた彼らの前には、誠心誠意をもっても頑として動かし得ない権力がのしかかっていた。もはや毛頭それに逆おうなぞとは考えたこともないほど毅然たるものであるに拘らず、たよりに思うのは、その関係のなかに在るひとりの人間でしかないのだ。
全然未知の権力に対して、彼らの場合には、偶然のめぐり合せを期待しなければならない。ないしは、甚だ微妙な交渉の呼吸が必要になって来る。それの駆使については、阿賀妻以外に人は無いと思われた。
彼らの家中も双手をあげて推挙した。是非とも成功して貰わねばならぬ――と、しかしそう思うこと、邦夷ほど切実なものはないのだ。そして、信頼する彼の阿賀妻が、文字通り、いのちに懸けてそれを成し遂げるであろうことはあきらかなことだが、けれども、邦夷の胸中を去来する不安はなかなかに消え兼ねた。捉えどころのない故に一層根強いものであった。ごつんごつんと頭をたたかれたような先年来の労苦が、半夜の瞼を濡らすのであろう。
宗藩の意志に従った彼らの支藩は、悪く考えたならば、その故にまた宗藩から投げだされたと云い得る。領内の士卒五百名を率いて、白河口の対陣になすこともなく過した三旬、中山口に兵をかえして、長州の応援を得た秋田藩を破ったときには、国論帰順に向い、国老遠藤なにがしをして官軍の本営に悔悟陳謝していた。
そのときを境にして、彼とともに、この家中の立場は完全に一変したのだ。兵を動かした損害は、人間をうしない、用度金を浪費したばかりではなかった。敗退と決定したあとに、衰亡の途が黒い口をあけて待っていたのである。
従って、蝦夷地支配の請願についても、官は盲滅法としか思われない漠然とした土地をにべも無げに指定した。すなわち「石狩国札幌郡空知郡ノ内――但シ、地所ノ儀ハ石狩府ニテ差図ニ及ブベキコト――右其ノ方支配仰セツケラレ候事」という許可であった。
ところで、云う所の空知郡とは「曠原にて、開墾第一の土地柄に候へども、海岸にてはこれなく、運輸の不便は云はずもがな、漁猟仕るべき様もこれ無き」ところであった。
彼の一族は、「天下各藩とは相違ひ、昨年中ご減禄仰せ出いだされ候末のこととて、撫育仕るべき様これなく家来ども七百戸三千七百余人の人員を移住致させ候儀にござ候へば、早速の儀、半ば漁猟によって活路をひらき、開墾事業に従事致させ候ほかこれなく候間、海岸にて漁猟等これあり候地所一ヶ所、ご分割下されたし」と歎願に及んだのであった。
あからさまに云えば、そういう奥地にはいるには費用が不足していた。膝を屈し、恥をさらけだして、その事情も具申しなければならなかった。
「そもそも私ことは、旧禄一万五千石のところ、当時六十五石の扶助米を相受けをり候ことにて、各藩のごとく手当行き届き申すべき様もこれなき次第にござ候へは、先づもつて風雨をしのぐ小屋相営み、移住仕り、今日跋渉、明日よりも漁猟にかかり、活路相開き、右人員ことごとく土着させたく存じ候間――ご仁恤のご沙汰なされたく伏して仰ぎ望み奉り候、昧死謹言」
だが、遂に詮議に及びがたし――であった。歎願書にこめた彼らの誠意は聞きとどけ兼ねると云った。反対に、この陳情にかけずりまわった阿賀妻は、何故か宗藩の官吏によって禁足を命じられた。
これらの報知は郷里にある邦夷を焦ら立たせずにはおかなかった。またしても宗藩に阻まれたのか。じりじりとした思いで、改めて家老の相田清祐を急ぎ遣わした。一縷の望みは、藩校主宰たる彼の人格が宗藩官吏に知己をもっていることであった。
待つこと二カ月。弁舌や人格で左右出来るものでなかった。一切は無駄であった。しかも、家禄を失った彼らの面前で、米は空前の高値である石十円を呼び、召しあげられた領地は他藩のものの占有に移っていた。明治二年師走のことである。
もはや便々とよりよいお沙汰を待っていることは出来なかった。彼は、投げるようにあたえられた件の土地の実地踏査に取りかかった。――大野順平ほか二名が主命を帯びて出発したのはそういう時期であった。
が、折柄の凍氷降雪で、途中イシカリ河口に立ち往生した。現地には、進退きわまったこの難渋を訴うるべき役所もまだ出来ていなかったのだ。そこを拓けというのである。
いまや邦夷は家来に恃んでいることも出来なくなった。彼の肩にかかっている人々の気持を思えば、壮年の血が底鳴りをうつのであった。時に年齢三十五歳。世代の荒浪と擾乱の馳駆に揉まれて、十世のあいだ安泰につづいていたこの目立たない小藩主の血には、無視されたと知るたびに重く沈澱する意志があった。
翌年三月、みずから七名の家臣をひきつれ、支配地授受のため折柄開庁した函館の仮役所に出向いた。頭書によって、ときの開拓判官は、「石狩国空知郡ノ内、ナエイよりナイまでの土地を分割」すると令じた。
同年四月である。直ちにその土地の引渡しを乞う。権少主典田中なにがしが現地立会人として派遣され同行することになった。
同月二十四日オダルを発して二十五日石狩に着く。滞在三日のうちに準備をととのえて、同二十九日石狩を発す。一行の同勢は十人、外にアイヌども七人。彼らの案内によってイシカリ川を溯行した。途中、マクンベツ、ビトエ、ツイシカリ等々の土人部落に泊って、河口より十日目であった。
その曠原が空知郡のナエイ。これが、あたえられた土地である。河口石狩の港を距る四十里――水路あれども運輸すこぶる困難なり――。見た目に不可能と映った。阿賀妻の杞憂や大野順平らの復命が裏書きされた。そのとき彼は、有力な家臣以上の仕事は出来ないという自覚を持たされたのである。
口をへの字に結んだ邦夷は、遠いところを見つめているような湿んだ瞳を据えて、この原始林を見まわしていた。しかし彼は函館に足を停めて最後の工作をやってのけたのである。何とかして海岸の地を得たいと思うしゃにむにの歎願であった。
季節は夏に向っていた。郷里では家中のものが首を長くしていた。挙げて移住する議が決定してから、すでに家をゆずり、家財道具を売りはらって待っている。よき土地あり――と報告せずにはいられない気持である。
頑として応じない官であるならば、こちらもまた、坐りこんで気永く要求しなければならない。すった揉んだのあげくに見つけた妥協案が、このシップ――と彼は荒莫としたこの沿岸地を見まわすのだ。
「元来土質良好ならざれども」――ただ次の点にのぞみをかけ、かけずにはおれない財政状態に追いこまれて、やって来た。「イシカリ河口を距る半里、すこぶる運輸の便あり」と。その彼の努力が、この通りまんまと失敗していた。こちらの苦衷を当然の酬いと白眼視する官に突き放され、もとの藩主は茫然たる思いであった。無我夢中で引き移って来たのである。
それにしても土地の悪いことと云えば、これはまた格別であった。何ものも実らない事実――それに加うるに、その節、海上の運送に委ねた糧食は、年を越え、そろそろ夏になったが未だに到着していなかった。調査に出かけた家中の高倉利吉らの消息も久しく絶えていた。日とともに、一団の人員はぽつりぽつりと欠けて行くような気がした。
凶いことは単独には来ない――邦夷の心に湧いた微かな宿命観は、今回の換え地出願も泡のように消えそうな気がした。哀しみが彼の静かな表情を歪めてしまった。近づいてみると、瞼も腫れあがっている。熟睡出来ない思いに追っかけまわされていたのであろう。それが、小さいながらも、一城の主であったその人の姿である。彼は、小屋の窓の前に来て、切り株に腰をおろした。
たった一人の従僕がつきそっていた。